2024年 01月 05日
融通無碍<37>幕末足軽物語/リーブル出版
土佐の森・文芸
融通無碍(南寿吉著)
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<令和6年1月5日発信>
【第37話】
『幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編(リーブル出版)』のこと
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編(南寿吉著)
幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編(リーブル出版)
2021年6月10日 初版第1刷発行
著 者ー南寿吉(田所賢一氏)
発行人ー川上壽一(田所氏の長兄)
発 行ーテラ・ハウス/森薫(田所氏の学友)
装 幀ー三浦定男
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『幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編』は、南寿吉(=田所賢一氏)の遺稿『幕末足軽物語』の書籍化ということでしたが、編集過程で(紙面の関係で)所謂『南史観<私観>=脱線話など』多くの箇所が省かれました。
遺稿『幕末足軽物語』のこと(幕末足軽物語/関連話)
『幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編』のあとがき<兄・川上壽一氏>にもあるとおり、公開されなかった原稿(彼の性格故の独善的な部分)の取り扱いについて関係者が集まり思慮しました。
結果、概ね半世紀の間、公私に渡り付き合いのあった山藤花(松本誓)がネット(ブログ)での公開を並行して行なうことになり、2021年1月にブログ版『幕末足軽物語/融通無碍編』をスタートさせました。
幕末足軽物語/融通無碍編 総集版(1話~ )
ブログ版『幕末足軽物語/融通無碍編』は、主に『幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編』で省かれた<南寿吉氏の愉快で楽しく、且つ緻密な論調で歴史の表裏がよく分る>関連話/脱線話などで構成されています。
幕末足軽物語/融通無碍編 第1部(1話~24話)
幕末足軽物語/融通無碍編 第2部(25話~37話)
幕末足軽物語/融通無碍編 第3部(38話~ )そのうちに、アップします。
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◆『幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編』と『幕末足軽物語/融通無碍編』のコラボ
①幕末足軽物語(遣倦録コラボ編)
②幕末足軽物語(戊辰戦争従軍コラボ編)
◆『幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編・融通無碍編』の関連話
幕末足軽物語/関連話のこと
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[関連ユーチューブ]
《土佐藩》
《幕末》
幕末と欧米列強(NHK)
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[幕末足軽物語/関連話]
フェートン号事件
佐賀藩のこと
長崎奉行所
龍馬の手紙(長崎奉行所 宛て)(イカルス号事件の処理)
文武館のこと
「この少年は日本一」と記した文書
坂本龍馬記念館広報誌・飛騰ほか
真吉が受け取った辞令のこと
大石彌太郎<人物評伝>
本山只一郎<人物評伝>
陸奥宗光<人物評伝>
沢村惣之丞<人物評伝>
池内蔵太<人物評伝>
由利公正<人物評伝>
文久2年8月<空白の日々>
京都守護職
長州征伐/禁門の変~下関戦争
龍馬の手紙(池内蔵太宛て)
龍馬の手紙(坂本乙女宛て)
長崎海軍伝習所
神戸海軍操練所
龍馬の手紙(坂本乙女宛て)
龍馬の手紙(坂本乙女宛て)
亀山社中
海援隊
振遠隊
神保修理と伏見戦争
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て)
「薩長同盟」までのこと
龍馬の手紙(印藤聿宛て)
戊辰戦争/今市宿攻防戦
竜馬の四万十川伝説
竜馬 四万十川にゆく(作者不詳)
龍馬の手紙
出版記念パーティ<門田隆将>
高知城歴史博物館
沖ノ島
真吉企画展のこと
民撰議院設立建白書
自由民権運動150年
古沢迂郎<人物評伝>
江藤新平<人物評伝>
副島種臣<人物評伝>
珍念さんのこと
文久という時代のこと(融通無碍/第31話)
慶応という時代のこと(融通無碍/第32話)
ユニオン号のこと(融通無碍/第33話)
明治という時代のこと(融通無碍/第34話)
小五郎の手紙(融通無碍/第35話)
幕末足軽物語 完結!!(融通無碍/第36話)
幕末足軽物語/リーブル出版(融通無碍/第37話)
「融通無碍/第38話」以後のこと(予定)
薩長同盟(融通無碍/第38話)
慶応3年の大芝居(融通無碍/第39話)
王政復古の大号令(融通無碍/第40話)
摩藩邸焼討事件(融通無碍/第41話)
龍馬と永井尚志(融通無碍/第42話)
暗殺5日前の「龍馬の手紙」(融通無碍/第43話)
龍馬書簡のこと(融通無碍/第44話)
龍馬の手紙(融通無碍/第45話)
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土佐の森・文芸/薪関連話
大震災と薪と高齢者・・・(能登半島地震)
大震災と薪と限界集落・・・(東日本大震災)
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◆編集後記<森薫>
平成23年(2011)3月に発行された「樋口真吉伝(龍馬を見抜いた男)」は、幸いにもその年の高知県出版文化賞を受賞しました。
龍馬を見抜いた男 樋口真吉伝
(平成23年度高知県出版文化賞/2011.3.15発行)
田所君が「樋口真吉伝(龍馬を見抜いた男)」を出版した頃、
我々は60歳になっていましたが、集まっては今後のことを考え、話していました。
70歳の壁を意識していましたが、今考えるとこの10年間に「人生100年時代」に入り、
過ぎ去ってしまえば70歳とはいったい何だったのかと思います。
この『幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編』には、我々には見えない彼<田所賢一氏=南寿吉>の特異な感受性・創造(想像)性が節々に見受けられます。
すーっとその時代に入り込み、悠然と闊歩している嬉しそうな笑顔が浮かんできます。
しかし、紙面の関係で、所謂『南史観(私観)』といわれる箇所は残念ながら多くの箇所が省かれました。
単なる明治時代を迎える、土佐足軽の一介の伝記に終わったのではないかと危惧しています。
一介の足軽の足跡をこれほどまでに克明に日記から拾い上げられ、幕末の時代を浮き彫りにした史実の数々に我々は圧倒されます。
土佐の歴史の一ページを飾るにあまりあるものだと誇りに思います。
田所賢一君(本名)、ようこんな長い物語を粘り強く書き上げたもんや!
令和3年<2021>1月18日
生きていれば70歳、合掌!
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作詞:モリカオル &Naughty-G 作曲:モリカオル
五坪ほどの土地でも(歌:元ちとせ)
年老いた時には子供たちの世話にならないように
私は五坪ほどの土地を買おう
日の当たる縁側で過ぎし日に感謝して
静かに私は旅立とう
そしてささやかなその場所に骨を埋め
年月が経てば名もない花が咲くだろう
だから五坪ほどの土地を買おう
そこには流れる歌があるから
そこには永遠の安らぎがあるから
そこには素晴らしい地上があるから
◆五坪ほどの土地でも・・・その<半世紀>後 (森薫)
私の家は5坪ではなく、100坪近くあります。
父親が60才になって建てたもので1人で住んでいました。
1989年、私は家族で東京からUターンして、そこに同居するようになりました。
そして、会社<(有)テラ>を立ち上げたので、庭の隅に五坪ほどの事務所(小屋)を作りました。
テラの事務所なのに、友人達は皆「寺子屋」と呼んでいました。
それがテラ小屋と呼ばれる所以です。<*(有)テラは2020年に解散>
仕事部屋というより、ギターの練習、本の制作、夜は居酒屋とフル回転していました。
田所君が寺小屋(ウチの事務所)へ来て、長々といろんな話をしました。
2005年(55才)〜2010年(60才)辺りまで、田所君が私に真吉の事を盛んに勧誘してきましたね。
私は当初、あまり乗り気ではなかったが、幡多方面で開催される講演会や桂浜で開催される真吉展示会を観ているうち、彼は本気だなと思うようになり、手伝うようになりました。
その時はいろいろ質問したり説明を受けたり、すこし歴史を勉強しましたね。
ギャグの応酬もよくやっていました。
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岡林信康の”くそくらえ節” 皇室、トイレバージョン
1.天皇陛下ー>屁ーか?
2.妃殿下---そんなにお腹がヒデーンか?
3.皇太子---早くコータイしてんか?
上記は結構、彼好きだった。
下記は2015年頃の極めつけ
4.秋篠宮---安芸市の飲み屋(一番、田所君にはウケた!)
岡林信康のくそくらえ節
2020年の流行語大賞は「村神様」でしたが、こちらは「フォークの神様」です。
旅立った人も、これから旅立つ人も・・・
皆、昭和に生まれて、昭和に生きた友達です。
友よ(岡林信康)
夜明け前の、日本人同士の戦い・・・
過ぎ去ってしまえばこの戦いとはいったい何だったのかと思います。
高知新聞(音楽仲間/森さん、森川さんの縁)
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昭和の友よ・・・
昭和の若者たち
田所氏が発起人の一人だったNPO法人土佐の森・救援隊の「お客」(高知県東津野村/四万十源流センター/2004.12.20)
平成の友よ・・・
平成の若者たち
そして、令和の友よ・・・
令和の若者たち
友よ
昭和に生まれて、昭和を生き抜いた
団塊世代前後のわれわれには、
それぞれの懐かしい時代がよみがえる!
川の流れのように
知らず知らず 歩いてきた
細く長い この道
いくつも時代は過ぎて
ああ 川の流れのように
とめどなく 空が黄昏に染まるだけ
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最後の旅立ち
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静かに私も旅立とう
作詞:モリカオル &Naughty-G 作曲:モリカオル
五坪ほどの土地でも(歌:元ちとせ)
年老いた時には子供たちの世話にならないように
私は五坪ほどの土地を買おう
日の当たる縁側で過ぎし日に感謝して
静かに私は旅立とう
そしてささやかなその場所に骨を埋め
年月が経てば名もない花が咲くだろう
だから五坪ほどの土地を買おう
そこには流れる歌があるから
そこには永遠の安らぎがあるから
そこには素晴らしい地上があるから
牧野富太郎
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71歳の旅立ち
追悼/高知新聞(竹内一/木の駅ひだか・薪倶楽部会員)
坂本龍一
坂本龍一がピアノを弾き終えた時の表情・・・
哀しすぎます。
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74歳の旅立ち
谷村新司
目を閉じて何も見えず 哀しくて目を開ければ
荒野に向かう道より 他に見えるものはなし
ああ いつの日か誰かがこの道を
我は行く さらば昴よ
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by matsuchika
| 2024-01-05 14:13
|
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2023年 12月 05日
融通無碍<36>幕末足軽物語 完結!!
土佐の森・文芸
融通無碍(南寿吉著)
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<令和5年12月5日発信>
【第36話】
幕末足軽物語(南寿吉著) 完結!!
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平成31年(=令和元年)<2019>6月、
南寿吉(本名・田所賢一氏)が『幕末足軽物語』を遺して身罷った。
故人の形見分けとして遺稿を受け取った旧年来(高知県立追手前高校)の友・森薫氏が整理・編集、3回忌にあたる令和3年6月、『幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編』を出版しました。
幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編(リーブル出版/2021.6.10発行)
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
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南寿吉著
幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編
この『幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編』には、我々には見えない彼<田所賢一氏=南寿吉>の特異な感受性・創造(想像)性が節々に見受けられます。
すーっとその時代に入り込み、悠然と闊歩している嬉しそうな笑顔が浮かんできます。
しかし、紙面の関係で、所謂『南史観(私観)』といわれる箇所は残念ながら省かれました。
単なる明治時代を迎える、土佐足軽の一介の伝記に終わったのではないかと危惧しています。(編集人/森薫「編集後記」より)
紙面の関係で、省かれた所謂『南史観(私観、人物評伝)』が、
ブログ版『幕末足軽物語/融通無碍編』で公開されました!!(令和3年1月~)
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幕末足軽物語/融通無碍編(南寿吉著)
[第1話] 様々な生き方
真吉はひとつにこだわることを嫌った。
人はそれぞれだし自分の考えを押し付けることはよくない。
目的を達するに方法はひとつではない。
融通無碍でいけばいい。
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《融通無碍》
土佐の中村
融通無碍/第1話<個別版/1件>
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[第2話] 川の流れのように
生まれたからには死に向かうのみ。それは正しい。
だが、生から死へは一直線だろうか。
川の流れのように岸を削りながら淀みながら行くのが人生ではないか。
人生は直線のコンクリート水路ではなく、右往左往しながらいく自然な流れがいい。
川の流れのように
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[第3話] 中村・下田のこと
四万十川河口にある中村・下田は上方<かみがた>を往復する船も多く、水主(土佐では『すいしゅ』、他地域では『かこ』と読む)の数多く住む町であった。
この地は進取の気象に富み言葉遣いも荒々しく『お町・中村』のお上品さとは趣を異にする独特の雰囲気をもった地域とされていた。鎖国期の長崎のような役割をこの港町は土佐で果たしている。
融通無碍/第3話<個別版/1件>
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[第4話] 伊豆・下田でのこと
文久3年(1863)1月15日夜、伊豆・下田の宝福寺で行なわれた土佐藩主山内容堂と幕臣・勝海舟(麟太郎)との会談について述べる。
この話し合いで坂本龍馬は前年3月に犯した脱藩の罪を許された。赦免である。
龍馬脱藩(NHK動画)
融通無碍/第4話<個別版/2件>
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[第5話] 黒船来航
嘉永3年(1850)秋、下田の沖にアメリカ合衆国海軍東インド艦隊(ペリー提督)の黒船が来航した。
嘉永3年といえば、土佐の高知では若き坂本竜馬が四万十川の改修工事の現場監督として幡多の中村にやってきた年である。
竜馬の四万十川伝説
融通無碍/第5話<個別版/1件>
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[第6話] 下田の風景
中村・下田で、海と川とが交わる有様を見ることに親しんだ真吉は体得していた。
『世の流れは海と川との関係と同じだ』と。
両者が交わる汽水域にこそ豊かな何かがある。
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[第7話] 峠
峠は物思いする場所。
人は峠に立ち、来し方と行く末を思う。
融通無碍/第7話<個別版/1件>
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[第8話] 旅人よ
旅は人をつくる。
ことに、若いころに旅を体験すれば、かれの人格の骨組みを組み立てるのに大まかな方向性を得ることが可能だ。
融通無碍/第8話<個別版/9件>
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[第9話] 砲術
旧来の和式砲術は関ヶ原の戦い以降、戦争は国内で起らなかったため約240年間ほとんど進歩せず、化石的技術に成り果てていた。
融通無碍/第9話<個別版/9件>
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[第10話] 幕末の志士像(徳川の世と新時代/明治維新)
幕末の一般的な志士像は女が大好物で、花柳界の女性を『解語の花』=美しくてしかも自分の言うことを理解してにっこりと笑む存在=として珍重・溺愛した。
融通無碍/第10話<個別版/1件>
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[第11話] 長崎独行
1839年(天保10年)に勃発し、2年間にわたる日本の隣国・清と大英帝国との戦争=阿片戦争の詳細(敗戦後の清国の悲惨な情報)が真吉に続々届いてくる。長崎からこの情報を得た真吉は居ても立ってもいられない。
今のままでは日本は清の二の舞になるのは必至だ。
蒸気船と大砲(砲術)だ。この研究が焦眉の急だ。行かねばなるまい、長崎へ。
融通無碍/第11話<個別版/2件>
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[第12話] 日本漫遊の旅
真吉は旅の人であった。
その極わみともいうべき壮大な旅は嘉永5年(1852)5月から翌年3月6日まで続いた。
高知を発し、九州各地を転々、中国筋、京大坂、東海道、そして江戸に入る。
剣の修行が主体であるが、行く先々での情報交換と知遇を得た人々から、真吉の人脈は急速度で拡大した。
融通無碍/第12話<個別版/13件>
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融通無碍/第13話(日記・倦遣録)
『倦遣録』は、文久元年9月3日から慶応3年2月26日までの真吉の日記だ。
この日記は、暗号・隠語に満ちて難解だ。が限りを尽して解読した。
同じ時期を扱った「愚庵筆記」、「壬戊日記」という記録も真吉は残したから、これらも参照しながら解読作業を進めた。(南寿吉)
日記・倦遣録/樋口真吉(南寿吉編著)
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP163>
◆文久元年9月3日
武楯(=武市半平太、号瑞山。小楯とも言う)が江戸を発し土佐に帰国する。
武市半平太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
◆同年10月6日
上士だが真吉の親友である佐々木三四郎が異聞(変わった情報)を聞いたと教えてくれる。
佐々木三四郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
*変わった情報《融通無碍》
横浜の新聞志(紙)(融通無碍/第19話)
◆同年10月8日
真吉、能見(上士。藩内の西洋砲術家か)を訪う。
砲術(融通無碍/第9話)
土佐藩の砲術(融通無碍/南史観<私観>)
◆同年10月11日
「坂竜飛騰」と記す。
坂竜飛騰(融通無碍/南史観<私観>)
◆同年12月11日
真吉は解印(辞職)する。
唐突な辞職であり、かねてより心中期するものがあったようだが、倦遣録からはその明確な理由は見い出せない。
武市半平太ら(土佐勤王党)の吉田東洋暗殺計画を知り「連中とは一線を画すべき時が来た。職を辞し、身を幡多に退転隠居する」と判断したのか。
土佐勤王党(融通無碍/南史観<私観>)
吉田東洋(融通無碍/南史観<人物評伝>)
◆同年12月15日
西行書(西に行く=中村へ帰郷する許可願い)を提出する。
◆同年12月20日
参政・吉田東洋に上書を提出する。
吉田東洋宛ての上書(融通無碍/南史観<私観>)
融通無碍/第13話<個別版/25件>
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融通無碍/第14話(日記・戊辰戦争従軍)
戊辰戦争は王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。
名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。
明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、列強が条約による内戦への局外中立を解除し、これ以降、同政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められることとなった。
日記・戊辰戦争従軍/樋口真吉(南寿吉編著)
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP305>
◆伏見戦争始まる
慶応4年(1868)戊辰の年、この年の秋には明治となる。
新日本の夜明け前だ。激動の年(慶応4年=明治元年)は明けた。
明治元年(融通無碍/南史観<私観>)
===============
◆慶応4年(1868)元旦 真吉54歳
土佐藩の主力部隊=迅衝隊結成のため谷千城と下横目・唯三郎が本藩(土佐藩)に帰る。毛陽人(宿毛)・中村進一郎がかれらに従う。
谷千城(融通無碍/南史観<人物評伝>)
伏見に会津兵が布陣している。
鳥羽・伏見の戦い(NHK動画)
同年1月5日
真吉は、野戦砲一門、兵七、八人とともに出撃した。
スペンサー銃のこと(融通無碍/南史観<私観>)
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◆迅衝隊
(前列左から伴権太夫、板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、山地忠七。 中列、谷神兵衛、谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、山田喜久馬<平左衛門>(刀を立てて持つ恰幅の良い男性)、吉本平之助祐雄。 後列、片岡健吉、真辺正精、西山 榮、北村重頼、別府彦九郎)
板垣退助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
山地忠七(融通無碍/南史観<人物評伝>)
片岡健吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
融通無碍/第14話<個別版/16件>
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[第15話] 夜明け前
安政7年3月、桜田門外で大老・井伊直弼が暗殺され万延と改元されるがこの元号、満一年も経たぬ翌年2月19日、文久に改まる。
文久4年2月に改元され「元治元年」となったが、翌年には改元され「慶応」になっている。さらに慶応4年(1868/戊辰の年)の秋に改元され明治となる。新日本の夜明けだ。
明治になるまでの夜明け前、目まぐるしく改元が繰りかえされた。
桜田門外の変(NHK動画)
融通無碍/第15話<個別版/1件>
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[第16話] 子を弔う 子を思う
安政4年(1857)7月上旬(新暦なら8月24日前後)、真吉の長男・鵬丸が俄かに発病する。
わが子の病は次第に重くなり、8月2日夭逝する。
融通無碍/第16話<個別版/2件>
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[第17話] 真吉の生き様
漢(おとこ)は一仕事終れば去るがいい。
歴史の海に消えるがいい。
樋口真吉を偲ぶには四万十河口の下田の高台に立てばよい。
下田の風景(融通無碍/第6話)
潮騒、浮雲、潮の香り。
人生 一片の雲
寄せては返す 波の音
(平成23年度高知県出版文化賞/2011.3.15発行)
真吉と龍馬(融通無碍/南史観<私観>)
第17話/別稿・関連話(<個別版/12件>)
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[第18話] 風になって
旅人になり知らぬ町を訪れると
最初に高台に上り、風になって全体像をつかむ。
そこから下りて町中に入り細部を見て回る。
こういう方式を取ることが常套法だった。
千の風になって
融通無碍/第18話<個別版/1件>
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[第19話] 横浜の新聞志(紙)
長崎にて、蘭通辞の川原又兵衛を訪問する。横浜の新聞志(紙)が届いたという。(当時、横浜に外国人居留地があったから外人に向けた新聞が発行されていたか。)
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[第20話] 新聞社
世の中を動かしているのは自分たち大衆ではなく、新聞社などメディアを背後であやつるサイレントマイノリティ(物言わず世をリードする少数者)であるのか。
これらは現在も生き残る変種の門閥制度といえるのかも知れない。
門閥は親のかたき(融通無碍/南史観<私観>)
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[第21話] 予定調和
予定調和は一見合理的だが、当てが外れるととんでもない事になる。
誰も望んでいないような目的地にみちびく道は願い下げだ。
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[第22話] 東西決戦と土佐の国
一領具足(融通無碍/南史観<私観>)
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[第23話] 人生は旅
融通無碍/第23話<個別版/9件>
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[第24話]幕末足軽物語(南寿吉著)のこと
融通無碍/第24話<個別版/16件>
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[第25話] 信四郎の足軽物語
樋口信四郎
安永8年(1776)土佐長岡郡大津に生を享け、
嘉永元年(1848)土佐中村でその人生を終えた。享年73。
『人生は空に浮かぶ一片の雲』という言を残した。
堂々たる生涯であった。
融通無碍/第25話<個別版/18件>
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[第26話]竜馬 四万十川にゆく
竜馬の四万十川伝説
融通無碍/第26話<個別版/18件>
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[第27話]日記:慶応3年(丁卯上京誌)
慶応3年、真吉は激動・混迷する京都に入り、土佐藩の吏員(足軽)として表と裏の情報・情勢を克明に記録した。
《大祐宮睦仁親王(明治天皇)の践祚/1月、島津久光上京/3月、いろは丸事件/4月、四侯会議、薩土密約/5月、薩土盟約/6月、久光へ討幕の密勅・大政奉還/10月、坂本竜馬・中岡慎太郎暗殺/11月、えじゃないか起こる/11月、江戸薩摩藩邸焼討事件/12月》
丁卯上京誌/あらすじ(融通無碍/南史観<私観>)
融通無碍/第27話<個別版/5件>
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[第28話]日記:慶応4年/明治元年(戊辰戦争従軍)
慶応4年(1868)は、戊辰の年、秋には改元され明治となる。
この年に勃発したのが戊辰戦争。
戊辰戦争に従軍した真吉の「日記:戊辰戦争従軍」は、慶応4年元旦(真吉54歳)鳥羽伏見の戦いに参戦したところから始まり、同年<明治元年>11月30日、会津戦争に勝利して東京~土佐に凱旋するところまでを、真吉の目線で記録している。
融通無碍/第28話<個別版/13件>
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[第29話]日記:明治2年(薩長への謝恩の旅)
明治2年2月から4月にかけて、真吉は薩長(薩摩及び長州)に藩命を帯びて旅行する。
この旅行目的は先の戦争で薩長からの応援を得て勝利を収めたからその恩を謝するための使いだった。真吉55歳。
融通無碍/第29話<個別版/12件>
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[第30話]日記:倦遣録/樋口真吉
この日記は暗号・隠語に満ちて難解だ。
が、限りを尽して解読した。誤釈あれば許しを請うのみ。
文久元年<1861>9月3日から慶応3年<1867>2月26日までの日記だ。
融通無碍/第30話<個別版/47件>
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[第31話]文久という時代のこと
文久元年(1861)
文久という時代は
文久元年から文久4年(=元治元年)まで、幕末の激動の3年間だ。
********************
[第32話]慶応という時代のこと
慶応元年(1865)
慶応という時代は
慶応元年から慶応4年(=明治元年)まで、幕末の激動の3年間だ。
融通無碍/第32話<個別版/63件>
********************
[第33話]ユニオン号のこと
ユニオン号とは?(Wikipediaより)
全長45メートル、排水量300トンの木製蒸気船で、イギリスで建造された。
慶応元年、長州藩が資金50,000両を出し、グラバー商会から薩摩藩の名義で購入、龍馬の亀山社中が操船するという「桜島丸協定」が結ばれた。
薩摩藩は「桜島丸」と名付けたが、長州藩では「乙丑丸」(いっちゅうまる)と呼んだ。
********************
[第34話]明治という時代のこと
明治元年(1868)
維新の年は明けた。
明治元年(1868)
維新の年は明けた。
ーーーーーーーーーーーーー
明治元年<=慶応4年>(1868)真吉、54歳
明治元年(融通無碍/南史観<私観>)
融通無碍/第34話<個別版/25件>
********************
[第35話]桂小五郎の手紙
「薩長同盟裏書」を受け取ったという礼状であるとともに、伏見寺田屋で襲われたことの「龍馬の手紙」を受け取っての見舞状である。
********************
[第36話]幕末足軽物語 完結!!
この『幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編』には、我々には見えない彼<田所賢一氏=南寿吉>の特異な感受性・創造(想像)性が節々に見受けられます。
すーっとその時代に入り込み、悠然と闊歩している嬉しそうな笑顔が浮かんできます。(森薫)
融通無碍/第36話<個別版/31件>
********************
[第37話]幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編(リーブル出版)
幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編(リーブル出版/2021.6.10発行)
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
融通無碍/第37話<個別版/7件>
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◆幕末足軽物語/関連話
ブログ版『幕末足軽物語/融通無碍編』を発信する過程で、故人と関わりがある多くの方から関連のお話(情報・歴史事象)などいただきました。
それらの情報を、その都度「幕末足軽物語/関連話」として、出来うる限り「幕末足軽物語」と関連づけて整理・編集・発信してきました。
(情報をお寄せいただいた多くの方に感謝申し上げます。)
これらの情報は『幕末足軽物語=樋口真吉』との直接的な関わりが薄い歴史事象のため、南寿吉氏も著作本の中では深入りせず、あえて記述も控えめにしたものと思われます。
しかし、間接的には『幕末足軽物語=樋口真吉』とも非常に関わりが深いものばかり(=幕末史のキーポイントとなる歴史事象ばかり・・・)なので、情報をお寄せいただいた方々には特段お断りをしていませんが、『幕末足軽物語/関連話』として一括公開しました。(令和5年12月)
(もし不都合があれば部分的にでも、全面的にでも削除します。)
幕末足軽物語/関連話のこと
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◆幕末足軽物語/関連話
フェートン号事件
佐賀藩のこと
長崎奉行所
龍馬の手紙(長崎奉行所 宛て)<イカルス号事件の処理>
文武館のこと
「この少年は日本一」と記した文書
坂本龍馬記念館広報誌・飛騰ほか
真吉が受け取った辞令のこと
大石彌太郎<人物評伝>
本山只一郎<人物評伝>
陸奥宗光<人物評伝>
沢村惣之丞<人物評伝>
池内蔵太<人物評伝>
由利公正<人物評伝>
文久2年8月<空白の日々>
京都守護職
長崎海軍伝習所
神戸海軍操練所
龍馬の手紙(坂本乙女 宛て)<勝海舟の弟子になった>
龍馬の手紙(坂本乙女 宛て)<神戸海軍操練所で、エヘン!>
長州征伐/禁門の変~下関戦争
龍馬の手紙(池内蔵太宛て)<長州征伐の動き>
龍馬の手紙(坂本乙女宛て)<下関戦争>
神保修理と伏見戦争
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て)<会津藩士・神保修理は人物だ>
「薩長同盟」までのこと
龍馬の手紙(印藤聿宛て)<国家のことを憂いている>
亀山社中
海援隊
振遠隊
戊辰戦争/今市宿攻防戦
竜馬の四万十川伝説
竜馬 四万十川にゆく(作者不詳)
龍馬の手紙
出版記念パーティ<門田隆将>
高知城歴史博物館
沖ノ島
真吉企画展のこと
民撰議院設立建白書
自由民権運動150年
古沢迂郎
江藤新平
副島種臣
珍念さんのこと<南寿吉>
文久という時代のこと(融通無碍/第31話)
慶応という時代のこと(融通無碍/第32話)
ユニオン号のこと(融通無碍/第33話)
明治という時代のこと(融通無碍/第34話)
小五郎の手紙(融通無碍/第35話)
幕末足軽物語 完結!!(融通無碍/第36話)
幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編<リーブル出版>(融通無碍/第37話)に続く。
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土佐の森・文芸/幕末足軽物語(南寿吉著)
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土佐の森グループ/ブログ事務局
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
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by matsuchika
| 2023-12-05 14:11
|
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2023年 11月 05日
融通無碍<35>桂小五郎の手紙
土佐の森・文芸
融通無碍(南寿吉著)
[関連話]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
<令和5年11月5日発信>
【第35話】
◆桂小五郎<木戸孝允>の手紙(龍馬宛て)
薩長同盟(融通無碍/第38話)
「大兄(龍馬)が伏見で襲われたことには驚いたが、何とか逃れたということで安堵した。大兄は公明で寛大なのは良いが、あまりに無用心なので心配だ。世の中が良くなるまではくれぐれもご用心下さい。」と忠告している。
なお、龍馬に宛てた「木戸孝允の手紙」は、土佐にいる龍馬の兄への手紙に添えて(同封して)送っている。当時の著名人・桂小五郎との交友を実家の家族に自慢するために送ったらしい。
~~~~~~~~~~~
[手紙の背景]
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP274>
慶応2年1月21日
京都の薩摩・小松邸で坂本龍馬や中岡慎太郎を介して、薩摩藩(西郷、小松、大久保、吉井ら)と長州藩(木戸、品川、三好ら)の「薩長同盟」が成立した。
中岡慎太郎(融通無碍/慎太郎伝<片岡正法>)
長州側から出された「両藩の合意事項の覚え書」に龍馬が朱筆をもって裏書きする。
薩長同盟のこと(融通無碍/南史観<私観>)
~~~~~~~~~~
薩長同盟の裏書き
【原文】
表に御記被成候六条ハ、小、西、両氏及老兄、龍等も御同席ニて談論セシ所ニて、毛も相違無之候。後来といへども決して変り候事無之ハ、神明の知る所ニ御座候。丙寅二月五日坂本龍
======
【現代文】
表に記載されたことは、小松帯刀、西郷吉之助、両氏及び桂小五郎、龍馬も同席の上で合意したことで、少しもそれに間違いございません。今後とも決して心変わりしないと、神に誓います。
丙寅(1866年)2月5日
坂本龍馬
《一介の浪士坂本竜馬が薩摩・長州の秘密同盟の書面の裏面に、このような保証人となること記したこと自体が奇跡であり、龍馬が今なお高い評価を受けている所以である。》
・・・・・・・・・・
慶応2年1月22日
薩摩側からの6か条の条文が提示された。その場で検討が行われ、桂はこれを了承した。
これにより薩長両藩は後世「薩長同盟」と呼ばれることになる盟約を結んだ。龍馬はこの締結の場に列席している。
盟約成立後、木戸孝允は自分の記憶に誤りがないかと、龍馬に条文の確認を行い、間違いないという「龍馬の手紙(返書)」を受け取っている。
~~~~~~~~~~
提携内容(6ヶ条)
一、戦ひと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事
一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事
一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事
一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事
一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事
一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事
・・・・・・・・・・
慶応2年1月23日
龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見の寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。
だがこのとき、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた。
明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が窓外の異常を察知して袷一枚のまま二階に駆け上がり、2人に知らせた。
すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を、三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。
負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。これにより龍馬は薩摩藩に救出された。
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
寺田屋遭難(融通無碍/南史観<私観>)
寺田屋遭難(YouTube)
==========
[幕末足軽物語/関連話]
この寺田屋遭難の詳細を、龍馬は兄の坂本権平、長州の木戸孝允に知らせた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙<坂本権平宛て①>(幕末足軽物語/関連話)
龍馬の手紙<木戸孝允宛て②>(幕末足軽物語/関連話)
・・・・・・・・・・
慶応2年2月29日
寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた。龍馬は、薩摩藩船・三邦丸に便乗してお龍を伴い京都を出立した。その後、薩摩には、83日間逗留した。
2人は温泉療養のかたわら霧島山、日当山温泉、塩浸温泉、鹿児島などを巡った。温泉で休養をとるとともに左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている。
「薩長同盟・坂本龍馬新婚旅行」解説映像(鹿児島市)
◆龍馬の「新婚旅行の手紙」(京都国立博物館所蔵<国重要文化財指定>)
お龍のことや鹿児島への旅の様子を絵入りで姉乙女に知らせた手紙である。霧島山登山について絵入りで述べている。
ーーーーーーーーーーーー
かくして、年が変わり
慶応3年になると、一癖もふた癖もある役者が出そろい、大芝居の幕が切って下ろされた。
慶応3年の大芝居 (融通無碍/第39話)
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP280>
ようやく西郷の主張する四侯会議のメンバーが京都に出そろった。
慶応3年(1867年)5月14日、
京都・二条城を舞台に、初めての四侯会議が開催された。
四侯会議 (融通無碍/南史観<私観>)
======
[融通無碍]
京都において設置された諸侯会議。
有力な四侯による合議体制で、15代将軍・徳川慶喜や摂政・二条斉敬に対する諮詢機関として設置された。
薩摩藩の主導のもとに成立した会議であり、朝廷や幕府の正式な機関ではなかったが、それに準ずるものとして扱われた。
5月14日の初会合では、徳川慶喜たっての要請で四侯は二条城で記念写真を撮影した。写真が趣味の慶喜が自ら撮ったという。
四侯会議(かごしま明治維新特集/南日本新聞)
薩摩藩はこれを機に政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取し、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようと図ったが、幕府(徳川慶喜)との政局に敗れ、ごく短期間で挫折した。
公武合体 (融通無碍/南史観<私観>)
この結果、薩摩は完全に倒幕に舵を切ることになる。
・・・・・・・・・・
慶応3年9月20日
龍馬は、桂小五郎に
「先日いただいた手紙の中の大芝居(四侯会議か?)の件は、かねてより知っていたことだけど、実におもしろい。」と手紙を出している。
龍馬の手紙<桂小五郎(=木戸孝允)宛て③>(幕末足軽物語/関連話)
ーーーーーーーーーーーー
かくして、月日が変わり
慶応3年10月になると、第2幕/大政奉還の大芝居が始まった。
幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP296>
慶応3年(1867年)10月13日、
後藤象二郎と福岡藤次の両氏が建白書(=大政奉還)を閣老・板倉周防守に提出する。
後藤象二郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
福岡藤次(融通無碍/南史観<人物評伝>)
ーーーーーーーーーーーー
かくして、月日が変わり
慶応3年11月になると、第3幕/龍馬暗殺で、龍馬と小五郎の大芝居の幕が降りた。
大政奉還から龍馬暗殺まで (融通無碍/南史観<私観>)
=============
龍馬と小五郎の大芝居(幕末足軽物語/関連話)
**************
[龍馬&小五郎/小話]
①西郷隆盛と、坂本竜馬と、桂小五郎、もし結婚するとしたら誰でしょう?と若い独身女性に聞くと「断然、桂小五郎!」だそうだ。
西郷だと、家庭よりも仕事を優先しすぎのきらいがある。竜馬だと他の女性にモテすぎて心配になる。それに比べて桂小五郎はずっと一途に奥さんを大切にしてくれそうだから、とか。
②安政の頃、坂本龍馬と桂小五郎が江戸の土佐藩邸で行われた剣術大会で対決した記録がある。勝敗結果は2対3で龍馬が敗北。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の場面と同様、接戦の後に小五郎が勝利したようだ。
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土佐の森・文芸/幕末足軽物語(南寿吉著)
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土佐の森グループ/ブログ事務局
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
On 2023/06/15 18:24, 松本 由美 wrote:> 印刷用データです。
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by matsuchika
| 2023-11-05 14:03
|
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2023年 10月 05日
融通無碍<34>明治という時代のこと
土佐の森・文芸
幕末足軽物語/融通無碍編(南寿吉著)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
<令和5年10月5日発信>
【融通無碍/第34話】
明治という時代のこと
~~~~~~~~~~~~~
慶応3年12月、江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件のあと薩摩の西郷隆盛は土佐の谷干城へ討幕の勅命が下ったことを示し、薩土密約に基づき板垣退助を大将とした土佐藩兵を上洛させることを促した。
江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件(幕末足軽物語/関連話)
慶応4年1月、板垣退助は土佐藩兵の迅衝隊を率いて上洛、錦旗を掲げて関東・東北へ東征軍として出陣することに。戊辰戦争だ。
迅衝隊(融通無碍/南史観<私観>)
慶応4年秋には改元され明治となる。
維新の年は明けた。
======
[融通無碍]
前列左から伴権太夫、板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、山地忠七。 中列、谷神兵衛、谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、山田喜久馬<平左衛門>(刀を立てて持つ恰幅の良い男性)、吉本平之助祐雄。 後列、片岡健吉、真辺正精、西山 榮、北村重頼、別府彦九郎
板垣退助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
山地忠七(融通無碍/南史観<人物評伝>)
谷千城(融通無碍/南史観<人物評伝>)
片岡健吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
明治元年(1868)<=慶応4年>真吉、54歳
《戊辰戦争/鳥羽伏見の戦い/1月、堺事件、新政府有栖川宮熾仁親王を征東大総督に/2月、甲州勝沼の戦い/3月、江戸城無血開城/4月、新政府軍会津若松城を攻撃/8月、会津戦争に勝利し東京・高知に凱旋/11月》
ーーーーーーーー
明治元年(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーー
『日記:戊辰戦争従軍』は、樋口真吉が戊辰戦争に従軍した物語(日記)です。
この物語(日記)は、
慶応4年元旦
伏見に会津兵が布陣している中、真吉が砲車を引いて少人数で参戦するところから始まり、
明治元年11月30日
会津戦争に勝利し、東京・土佐に凱旋、真吉が土佐藩校致道館を訪れるところで終わっている。
ーーーーーー
日記:戊辰戦争従軍/樋口真吉[ノンフィクション]
①伏見戦争始まる
②錦旗を掲げて東征軍は関東へ
③江戸開城
④会津戦争そして凱旋
~~~~~~~~~~~~~~~~~
[日記:戊辰戦争従軍<あらまし>]
幕末足軽物語<戊辰戦争従軍編>(融通無碍/南史観<私観>)
真吉の日記は暗号・隠語に満ちて難解だ。が、限りを尽して解読した。誤釈があれば、許しを請うのみ。
真吉文書の読解(融通無碍/南史観<私観>)
============
《明治元年/真吉の動静》
【日記・戊辰戦争従軍】
激動の年は明けた。
慶応4年1月元旦
伏見戦争始まる
谷守部<千城>と下横目・唯三郎が本藩(土佐藩)に帰る。毛陽人(宿毛)・中村進一郎がかれらに従う。
谷千城(融通無碍/南史観<人物評伝>)
伏見に会津兵が布陣している。
真吉は、砲車を引いて少人数で参戦。
スペンサー銃のこと(融通無碍/南史観<私観>)
~~~~~~
◆土佐に錦旗が授与された
征討仰せ付けられ候に付き、御紋御旗(錦の御旗)二流下賜候事 正月
高松 松山 大垣 姫路
右四藩、従来天朝を軽蔑し奉る義、少なからず候処、剰あまつさえこのたび慶喜反逆に与力し、官軍に敵し候段大逆無道、これに依って征伐の師(軍勢)差し向けられ候事 正月十日
土佐に錦旗が授与された(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーー
1月13日
真吉は錦旗を守護して本藩に帰る予定で動き始める。
土佐本藩では『迅衝隊』が結成され、同隊に錦旗を届けるための帰藩であった。
真吉は錦旗を守護して四国に渡る。
その一行は大監察・本山只一郎、小監察・伴周吉、徒監察・樋口真吉。その余は吉川捨吉、下横目・吉永良吉、濱田清蔵、本山左近九郎、脚子(足軽の意か)武市慶七、池本傳助、友松鏆兵衛など12人、京師を発して伏見で乗船し夜八頃(26時)大坂に着く。
本山只一郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
錦旗を守り抜いた(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーー
慶応4年2月
錦旗を掲げて東征軍は関東へ
土佐勢・迅衝隊は東山道を進む
東征軍の軍令(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーー
2月11日
東征軍に動員する藩兵を全員集合させ、装備など点検する。
総兵員合わせて1100余人(割り当て人数より若干少ない)宿継ぎ人足は300余人。
総督・板垣退助
輜重長(=輜重奉行)・早碕兵吾
《真吉は輜重隊の裁判役、輜重長の早碕兵吾は後に敵前逃亡の罪で本藩送りの処分を受ける。》
真吉は輜重隊<裁判役>(融通無碍/南史観<私観>)
輜重奉行が敵前逃亡(融通無碍/南史観<私観>)
当初行軍経路は東海道の予定であったが朝廷の意向で東山道に繰り替えになる。
整列した将兵を前に山内容堂が短く訓示する。
曰く
「天猶寒し、自愛せよ」
======
[融通無碍]
この容堂の「送別の辞」は素晴らしい気の利いた文言だと思って、筆者もいっときうなったが調べてみると僧・良寛の募金活動に出る関係者に贈った言葉だった。
再度「ウーン」と首を傾げながらうなった。
君欲求蔵
経遠離故
園地吁嗟吾
何道天寒自愛
君蔵経を求めんと欲して
遠く故園の地(ふるさと)を離る
嗚嗟吾れ何をか道わん
天寒し自愛せよ
天猶寒し自愛せよ(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーー
2月14日
雨天であるが予定通り京師を発す。
官軍(東征軍)として関東へ
土佐勢は東山道を進むことに
ーーーーーーーー
2月18日
垂井、大垣<岐阜県>で宿。迅衝隊・裁判役の村松彦蔵が大坂からやって来た。言うには『去る14日、大坂・堺においてフランス人が乱暴を働き、土佐藩兵が駆けつて斬って追い払うと連中は狼狽し艀はしけに乗って逃げたそうだ』
堺事件の一報である。
堺事件(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーー
2月21日
■総督府からの通達
土州陣各位
決定事項などを知らせる(総督府執事)
①敵が襲来したら号砲で合図すること
②喧嘩騒動と出火のときは太鼓を鳴らすこと、但し鎮圧には各藩一小隊を出動させその変に応じること。他隊は妄りに動揺しないこと
③合言葉『月・雪』の使用は明22日からとする。
総督府からの通達(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーー
慶応4年3月朔日
諏訪湖を越す。まだ氷の世界で雪氷が道を閉ざしている。兵隊の歩行は難しく、滑って転べば足裏が天を拝むことになる。
諏訪湖の水は眼下に横たわり、南のかたには富士山が突出する。最高の景色だ。
ーーーーーーーー
3月5日
早発する。甲州入口には川があった。
幕府代官のいる甲府城を受け取り、城下の一蓮寺(山梨県甲府市太田町:時宗系寺院で山号は稲久山。一条道場とも呼ばれる)で休憩する。
夜半、東方に火の手が上がり段々とこちらに近づいて来る。賊徒らしい。
真吉らは野寺の市店に宿陣していたがここでは防御が難しいと判断し、接収した甲府城に拠ることにし、移動した。その移動が終わる頃、夜が明けた。
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[融通無碍]
◆甲州勝沼の戦い
甲州勝沼の戦い(融通無碍/南史観<私観>)
勝沼古戦場(NHK動画)
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3月9日
晴れ。真吉も引き返して石和<いさわ>(山梨県笛吹市石和)に来たとき味方・因州勢がこちらに向かっているとの情報があり、それならと引き返すのをやめ再度勝沼に転じ途中の黒田で宿す。真吉の引き連れている輜重兵団も同様だ。
======
[融通無碍]
真吉の引率する輜重兵団(=輜重隊)は軍需物品の調達・輸送が主務であるから戦闘能力は正規軍より劣る。
しかし、戦況を予測して適期に適品を過不足なく適地に送るは至難である。余程の洞察力と経験と胆力が求められる。
真吉は輜重隊<裁判役>(融通無碍/南史観<私観>)
輜重奉行が敵前逃亡(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーー
3月10日
賊徒を勝沼(山梨県甲州市勝沼町)まで追い詰めたが賊徒らは鳥居の許<もと>に身を潜め、鳥居を楯に発砲反撃してくる。
その抵抗は激しく、民家を焼き払い、橋を落とし、街路樹を路側に切り倒して我が進路を妨害する。周辺の松樹を集めて短く切って「逆茂木<さかもぎ>」とし、大砲を据える敷地を構築している。
甲州勝沼の戦い(融通無碍/南史観<私観>)
迅衝隊が甲府城を接収すると「浪士掛探索役」を命ぜらる。総督・乾退助が祖先の縁で旧姓・板垣を名乗ったことから徳を慕って武田武士の後裔が続々名乗り出たから、これを集めて遊撃隊の如きものが自然に結成された。
ーーーーーーーー
3月17日
江戸に入ると、甲府で結成されたこの部隊(総勢約150人)は断金隊と名付けられ、美正貫一郎が隊長に任ぜられた。土佐藩にとっては外人部隊であるから下士の貫一郎が任命されたかという穿った見方も可能だろう。
断金隊のこと(融通無碍/南史観<私観>)
美正貫一郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
板垣退助と断金隊(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーー
3月27日
13連発銃(=スペンサー銃)の代金600両を刀工・豊永久左ヱ門(左行秀<さのゆきひで>)に渡す。
スペンサー銃のこと(融通無碍/南史観<私観>)
左行秀(融通無碍/南史観<人物評伝>)
ーーーーーーーー
3月30日
江戸城の兵5騎が官軍の証しである『錦の袖印』を無着用の兵7人と遭遇して喧嘩になり、江戸城側・騎馬の兵3人が討ち果たされ、無着用(偽官軍兵?)の連中は立ち去ったという。(旧幕への挑発行為か)
=========
◆江戸城の無血開城(慶応4年4月)
江戸へ再来した西郷は勝・大久保らとの間で最終的な条件を詰め、4月4日には大総督府と徳川宗家との間で最終合意に達し、東海道先鋒総督橋本実梁、副総督柳原前光、参謀西郷らが兵を率いて江戸城へ入城した。(フリー百科事典『ウィキペディア>より)
斯くして、江戸城は開城した・・・
江戸城の無血開城の物語
勝てば官軍、負ければ賊軍
ーーーーーーーー
慶応4年4月
真吉がまとめた最前線情報/江戸にて(融通無碍/南史観<私観>)
◆一枚の写真が語る真吉
真吉の顔つきその他を述べる。
生涯を通じて残ったただ一枚の映像が残るのみである。
撮影時期・場所について記録はないが、推定できる。
開港した横浜で、慶応4年4月。その根拠は後にいう。
一枚の写真が語る真吉(融通無碍/南史観<私観>)
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慶応4年4月1日
晴れ、「如来寺」(同・日光市今市、東武日光線の下今市駅の西北五百mに所在)に輜重隊の本部を置くことにした。
輜重隊(融通無碍/南史観<私観>)
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【世界遺産を守った土佐兵/板垣退助】
迅衝隊は敵を追って日光東照宮に迫ったが、その門前に2人の僧侶が飛び出して来て平身低頭して涙を流さんばかりに哀願する
「賊徒が山内(境内)に侵入しております。今、官軍がこれを追って攻撃しますとこの貴重な霊場が焦土と化すことはわれらにとって嘆息に堪えないことです。暫くのあいだ、お待ち下さい。帰山して凶徒どもを追い払い掃除も済ませて官軍をお迎えします」
確かに懇願は丁寧で理に適っている。僧侶は懇願を繰り返す。
迅衝隊内で相談の末、ひとまず引き返すことにした。
◆板垣の英断
総督板垣退助の英断もあっただろう。日光東照宮という文化財はその後の戦火も免れて現在に至る。世界文化遺産である。
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[融通無碍]
総督たる上士・板垣退助には幕府を開いた徳川家康に対する尊崇の念が有った筈だ。かれの地位の源泉は藩祖・山内一豊を厚遇した家康にあるから。家康あっての土佐藩だ。
もし総督が長宗我部侍の末裔であったら「憎き徳川の廟など・・・」だったかも知れぬ。
歴史に「もしも・・・」は禁物。
板垣退助、日光東照宮を守る(融通無碍/南史観<私観>)
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4月5日
大沢を発し、今市に戻る。さきに甲府の断金隊・旧井清左ヱ門という人が敵情を偵察するため日光に潜入したが発覚して滅多斬りにされたという。
甲府の断金隊(融通無碍/南史観<私観>)
滅多斬りにされた男(融通無碍/南史観<私観>)
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4月9日
戦闘に必須の輜重隊/軍夫の不足が深刻化してどうにもならない。
真吉はその募集のため本藩(高知)に派遣されることになった。
真吉は輜重隊(融通無碍/南史観<私観>)
真吉、人集めのため奔走(融通無碍/南史観<私観>)
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4月11日
黎明のころ、徳川慶喜が江戸城を退く。
徒歩<かち>の家来を500人ばかり従え、上は平袖、下は小袴の高股を着用して(如何にも貧相で、尾羽打ち枯らした風体)、砲器(自衛の火器)は携えず、総髪(月代も剃らず、丁髷<ちょんまげ>を結ばず後で束ねた髪型)であった。
この哀れな一行が千住<せんじゅ>に着いた頃、夜は明けた。
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◆江戸城の無血開城(慶応4年4月)
徳川の終焉(融通無碍/南史観<私観>)
江戸城無血開城(NHK動画)
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4月20日
◆第一次今市の戦い
旧幕府軍及び会津軍は兵力を2つに分け日光街道の東西両方向から今市へ攻撃を始めた。板垣率いる新政府軍は東西の旧幕府軍を各個撃破した。板垣は周囲の新政府側戦況の悪化を鑑み今市周辺に防御陣地を構築し、今市で旧幕府軍を迎え撃つ体制作りに着手した。
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4月26日
真吉は、尾崎源八に手紙を出した。
『武州・栗橋駅より一書を呈します。壬生<みぶ>辺りでの戦争はおおかた勝利を得えました。』
真吉の手紙<戦場より>(融通無碍/南史観<私観>)
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4月28日
大雨を衝いて迅衝隊の六隊が進み、壬生城に着す。
輜重奉行・早崎兵吾が安塚<やすづか>(栃木県壬生町安塚)の賊軍が来たと誤断し、輜重隊は動揺する。
しかも奉行たる早崎は臆病風に吹かれて(=『三舎を避けて』)姿をくらました。
主を失った輜重隊は右往左往し糸の切れた凧たこ状態となる。真吉は早崎の行方を懸命に捜したが三日経っても分からない。
その結果、前線は輜重からの物資の供給を受けられず立ち往生、退却を余儀なくされる。土佐藩兵は宇都宮城攻撃に遅参して面目を失う。
輜重奉行が逃亡/早崎兵吾(融通無碍/南史観<私観>)
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慶応4年5月6日
◆第二次今市の戦い
旧幕府軍及び会津軍は今市の東側に兵力の大部分を集結し一斉攻撃を始めた。板垣は西側の守備隊を再編し旧幕府軍の南へ迂回し反撃を始めた。また宇都宮から急行してきた新政府軍が到着し、旧幕府軍側は敗走した。
【真吉、奥州に入る】
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5月18日
江戸・上野戦争の勝利報告が届いた。
上野戦争終結(融通無碍/南史観<私観>)
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慶応4年6月10日
芦野(同・那須町芦野)の駅は館林(群馬県館林市:官軍に属した。以前は関東以北に睨みを利かす幕府の有力藩)の兵隊が200人ばかりで守っていた。頼家、山中を経て界<さかい>明神、ここには石柱あって、『南は黒羽領』『北は白川(白河)領』と標されている。
真吉いよいよ奥州の地に足を踏み入れる。
黒羽勢が白坂(福島県白河市白坂)を固めている。
奥州最初の町・白河についた。
《深紅の大優勝旗も、奥州に入る/令和4年(2022)8月》
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6月17日
昨夜横浜から戻った使者が言う。
「10連発銃が近日中に到着する見込みです」
さらに、その日のうちにスイツ(=スイス)の時計商人・James Favre-Brandtに注文していた小銃50挺が横浜に届いたと連絡があった。
時計商人・James Favre-Brandt(融通無碍/南史観<私観>)
真吉が待ち兼ねていた品物であった。
即刻、横浜で受け取ろうと決意して真吉は出発、その日は品川で泊まる。
真吉、10連発銃を買う(融通無碍/南史観<私観>)
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6月28日
この24日に迅衝隊は薩長他と協力して棚倉(福島県棚倉町)の城を攻め落としたという。
輜重隊(融通無碍/南史観<私観>)
真吉はこの日(深川・砂村の下屋敷に住む)中濱万二郎を招いて飲む。
真吉とジョン万(融通無碍/南史観<私観>)
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[融通無碍]
真吉が死ぬ(1870)まで両者は深い交遊を続けた。
嘉永5年(1852)の長崎奉行所での出会い以来延々18年。
真吉はジョン万の語る「米国の民主主義、博愛主義そして能力主義」に大きな感銘を受けた。
中濱万二郎(融通無碍/南史観<私観・人物評伝>)
真吉による万二郎談<聞き書き>(融通無碍/南史観<私観>)
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6月29日
真吉は江戸城に登城して正五位を叙位されている土佐出身の高官・清岡半四郎に面会する。
清岡半四郎は土佐東部・野根山で蜂起し(野根山騒動)、奈半利川原で散った清岡道之助の実弟である。
野根山騒動結末記(融通無碍/南史観<私観>)
かれは官軍の実質的な指揮官・大村益二郎と真吉をひきあわせた。真吉は軍資金不足を直訴する。
「手持ちの金では一月<ひとつき>半がやっとだ、天金がもらえないと負ける」
その答えに大村益二郎は
「降心(=安心)いたされよ。これ以後は兵事の差し支えに及ぶことは決してない」
新政府軍の総元締め・大村益二郎は真吉に「安心して下さい。今後、軍資金面で御心配は無用です」と明言した。これ以上の担保はあり得ない。
最高の言質を得て、真吉は安堵と満足に浸りながら帰邸した。
大村益二郎(融通無碍/南史観<私観・人物評伝>)
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7月10日
敵の領分を探索する。
五里圏内に敵影を見ない。しかし山林・渓谷中に放置された死骸の腐臭が酷く、鼻を被わないと通れないほどだった。今月一日の戦闘の跡だ。
旧暦の七月一日は調べるとこの年は八月十八日だった。お盆を過ぎているから少し暑気も薄れたかも知れない。が相当高温だろう。
遺棄された死体が十日間放置されれば・・・・
目を覆う惨状(視覚)に腐臭(臭覚)が加わると・・・・
匂い付きの地獄絵を突きつけられたような思いがするだろうに。
うじ虫が遺体の上を這い回る音(聴覚)がザワザワと静かに聞こえる。何とも筆舌に尽くしがたい。
われわれは戦争の画像を時々見ることもあるが、画像から臭においは伝わらない。視覚に訴えても嗅覚には伝わらない。
戦争の悲惨さへの自分の想像力の欠如を思い知る。
戦争を煽る人々にこそ嗅がせたい臭いではないか。
思い知るべきだ、戦争が起ればどうなるか。
一度臭えば三日は忘れないとか聞いた。鼻についた悪臭の思い出で全く食欲を失うとも。
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◆磐城の戦い
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7月16日
黎明、仙台を主体とする敵(奥羽越列藩同盟)千人余りが城山を占領後、浅川に押し寄せた。
奥羽越列藩同盟(融通無碍/南史観<私観>)
土佐藩と彦根藩がこれを迎えうつ。晨<そうしん>から八ツ時(14頃)に及ぶ激戦のすえ、敵はついに背を向け敗走した。
この日、朝のうちは晴天であったが戦いが酣<たけなわ>の頃大雨になったから敵は甚だ困窮した。
仙台勢を主体とする敵の装備は雨天に弱点があったのだろう。
つまり火縄銃かこれを改善した燧(火打ち)式銃の点火は雨が降れば火薬には着火せず銃が使えない。
一方真吉らの装備は雷管式のスペンサー銃などであるから火薬は密閉されており湿らない、それに打撃で生じた火花のごとき電流で内部着火させるから雨天でも全く痛痒を感じない。全天候性だった。
火縄銃(融通無碍/南史観<私観>)
スペンサー銃のこと(融通無碍/南史観<私観>)
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7月24日
真吉らは棚倉を発し、二里行くとまだ戦闘の跡も生々しい淺川を見る。ここは西側に原っぱや田んぼが広がっていて人家も多い所であった。
佐田、白川村を経由して石川に泊まる。石川は淺川から三里離れているが、ここでは官軍は先鋒を彦根藩、次に館林、薩摩、長州、そしてわが土佐、黒羽、最後に忍の順番に一日交代で宿陣する約束であったにも関わらず、この日は何故か全ての藩が宿泊しており、土佐藩兵の宿る人家がなかったから、大もめにもめた。
混成・連合軍の宿命(融通無碍/南史観<私観>)
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◆会津城の戦い
旧幕府側の会津藩は若松城において約1ヶ月における籠城戦の後、降伏した。
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7月27日
迅衝隊の2、3、4、6の小隊が小浜(福島県二本松市小浜)に向かって進発した。敵は土佐兵の姿を見ると守っていた関所を捨て、持っていた銃器も投げ捨てて逃げる。
本道をとった9、13の小隊は断金隊とともに早朝から敵を追って進んだが、敵は逃げながらも道ばたの家々を焼く。銃弾に死んだ敵兵の遺骸が収容もされず放置されている。敵は阿武隈川の西岸でわれらを待ち構えるように陣取りしていた。
断金隊(融通無碍/南史観<私観>)
断金隊長の美正貫一郎が阿武隈川を渡る時日の丸の鉢巻を巻いて濁流に飛び込んで戦死した。享年25歳。
美正貫一郎(融通無碍/南史観<私観・人物評伝>)
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7月29日
先発組は二本松に進む。輜重隊がこの後に続く。二本松まで二里。二本松城主・丹羽左京大夫は城を棄て逃げていたが、徹底抗戦を決意した勢力は大手門外に出て迎え撃つ態勢だ。
(戦いが始まった)この戦いで小兵の大石彌太郎が敵と組み打ちとなったがおおかたの予想に反し、大兵の敵を組み敷き見事に首級を揚げた。
大石彌太郎(融通無碍/南史観<私観・人物評伝>)
(城を出て戦ったから)城を占領された敵は逆に大手門を破って侵入し、ついに城に火を放つ。敵は多くの死傷者を出した。真吉の指揮する輜重隊は城中に入り、小憩する。
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【真吉、6連銃を発す】
城中に入り、小憩していると、突然隣の部屋で大騒ぎが起きた。階上に敵1人が潜んでいたからだ。
大勢でこの敵を取り囲むと敵も獅子奮迅の働きを見せて抵抗するから真吉も6連発銃を撃ち掛ける。薩兵も撃ったから敵は乱射の銃弾に倒れた。射殺された敵兵は会津兵であった。この騒ぎで大垣兵が1人戦死した。
真吉も人に銃口を向けて発射したのは初めてだったようだ。多分拳銃だろう。冷静な男も興奮して記録したか。真吉54歳。まだ若い。
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慶応4年8月~9月
◆会津城の戦い
旧幕府側の会津藩は若松城において約1ヶ月における籠城戦の後、降伏した。
白虎隊(NHK動画)
負ければ賊軍(融通無碍/南史観<私観>)
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慶応4年8月11日
弘田章三郎が高知へ帰る途中にこちらに向かって来る谷干城に会ったから止めて留まる。この頃、谷干城は丁髷を切り落とした髪型であったという話も残っている。「止めて留まる」は意味が取りづらいが、弘田が谷に「どうも大きな戦闘が始まりそうで危険だから、行くのは止めて様子を見たほうがいい」と助言したところ、谷がそれに従ったということか。
谷干城(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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この日は、記念すべき日になった。
軽卒(身分の低い兵卒)が苗字を公称することを許された。
苗字公称が許された(融通無碍/南史観<私観>)
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8月30日
石筵<いしむしろ>(福島県郡山市熱海町石筵)を通ったが、深い泥路に馬の蹄(=脚)が抜き差しならぬ状態になり苦労した。
石筵は山の中の集落で、庄屋の家も民家も焼き尽くされていた。真吉はここで休んだ。
石筵でのお話(融通無碍/南史観<私観>)
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明治元年9月5日
寺田知己之助が白河に行く。
寺田知己之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
昨夜、若松城の方角が焼けた。真吉らの持ち場の前の空屋に潜んでいた敵が混乱させるためにこの空屋に火を放ち、折からの風に煽られ広がって、大垣藩兵の持ち場にも延焼した。 薩摩兵が急迫し、橋の破壊作業中の敵兵を狙い撃ちする。
薩摩の機敏な動きはこの戦いの第一級の功績と言うべきだ。三藩の兵が進み、土佐兵が先頭を切って若松城の城門をよじ登って乗り込む。死傷者は多数出たが城に肉薄して攻撃を加えた(土佐藩兵の)軍功は他に類を見ないだろう。
黄昏から始まった戦闘は大垣藩の持ち場を主戦場にして半夜まで続いた。
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9月22日
忠義の藩主 松平容保(NHK動画)
(罪魁=賊の親玉)松平肥後守が降旗(=白旗)を捧げて陣頭に出て来た。
降伏の応接(やりとり)を済ませた後、敵は一旦城に戻った。
七ツ時(16時頃)に藩主父子は駕籠に乗って出て来た。近習(側近)が駕籠を担いでいる。駕籠の周りを2、30人ばかり無刀で警戒しながら歩いていく。
その駕籠を先導するかのように薩摩勢が進み、真吉らの土佐兵勢は殿<しんがり>(最後尾)を固めた。藩主父子を瀧沢村にある妙国寺に幽閉した。瀧沢村の名主は田中冨七、同・地頭は大瀧勝次郎であった。
会津藩が降伏(融通無碍/南史観<私観>)
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[融通無碍]
◆会津降伏
冬将軍の到来を間近にし、新政府は会津との停戦の時期を模索していた。このため会津と良好な関係にあった土佐に着目した。会津降伏は米沢藩→土佐藩の線で進められた。
会津は藩公・容保が和平交渉団を密かに土佐に送っていた。その構成員の多くは山川大蔵の知人だった。山川は和戦両様の構えだったが戦況から和平に傾いていた。
山川大蔵と谷干城のこと(融通無碍/南史観<人物評伝>)
和平交渉団から「藩主・容保を助命すること」を求められた土佐藩(=藩中枢にあり、会津攻撃の責任者=板垣退助)はこれを飲む。(が、板垣の独断で決裁できる問題ではない、裏で「薩摩幹部と長州幹部そして岩倉具視など公家衆との合意・承諾が既に成立していた」とみるが常識だ。)
土佐藩は会津降伏の筋書きを交渉団に示しその承諾を得た。
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9月26日
自力で歩ける負傷兵が白河に移る。医師の田口文竜(良)が付き添う。
小笠原八吉(彦彌)が足軽一人を従え御使者として高知に派遣された。
小笠原彦彌は小笠原三兄弟の末っ子である。
小笠原三兄弟(融通無碍/南史観<私観>)
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明治元年10月24日
◆東京に凱旋
《「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP377》
午前中に東京に着いた。増上寺に入る。
東京に凱旋(融通無碍/南史観<私観>)
徳川将軍家とのゆかりが深い東京・芝にある増上寺
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10月25日
兵隊は残らず中納言様(=山内容堂)へ拝謁する。御酒料として200匹もらう。
【中納言様御意の写し】
今春以来、東北に出陣しいずれも勉励・奮戦の段はその時々に報告をうけて承知しており、予が満足はこれ以上ないほどだ。
いささかであるが、慰労のためこの酒肴を遣わす
愛用の玻璃酒杯を片手にあぐらをかく鯨海酔侯山内容堂公/高知市鏡川畔山内神社
会津戦争から凱旋まで
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11月1日
「御本丸」と書かれた江戸城の写真
晴れ、4時(10時ごろ)甲邸に出る。
諸隊勢揃いの上、皇居(=天皇のいる江戸城)に参内する。
下馬札の手前に銃器を置いてから登城する。回って庭先の少し下の段に刀を脱し、庭の上の土に蹲踞する。
大臣が周旋して御簾が高く巻き上げられ、隊長以下敬いて龍顔(天皇の顔)を拝したてまつる。
陛下は白い御衣を召しておられた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP380>
12月1日
曇天、真吉の戊辰の年の旅はこうして終わった。
土佐へ帰る直前に戊辰戦争凱旋記念として横浜で撮影された。
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◆一枚の写真が語る真吉
南寿吉氏の著書:「樋口真吉伝」(2011/高知県出版文化賞受賞)に面白い記述(四方山話)があります。
樋口真吉伝
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第一章 真吉の生きた時代
故郷における樋口家
一枚の写真が語る真吉
《「樋口真吉伝」ではP20~23》
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[余話<後日談>]
会津から江戸・京都、そして高知城での凱旋後、中村に戻ってきて妻・お兼や娘二人、そして跡取りの次男(長男・鵬丸は夭逝した)鵬二郎を引き連れて高知城の南、鏡川の北岸・築屋敷に引っ越した。
家の座敷からは、川向こうに筆山<ひつざん>(標高百十七m)が見える。
鏡川北岸から筆山を望む
ここは足軽には居住が許されなかった区域(藩の官舎)であったが、真吉が戊辰戦争の功績で「新留主居役<しんるすいやく>」という上士最下位に昇任したから入居できた。
新留主居役(融通無碍/南史観<私観>)
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日記:戊辰戦争従軍/樋口真吉(融通無碍/第28話)
真吉と戊辰戦争(融通無碍/南史観<私観>)
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[日記:戊辰戦争従軍<あらまし>]
幕末足軽物語<戊辰戦争従軍編>(融通無碍/南史観<私観>)
「日記:戊辰戦争従軍」は、慶応4年元旦(真吉54歳)、伏見に会津兵が布陣している中、谷守部(干城)が土佐藩に帰るところから始まり、
谷千城(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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明治元年11月30日
会津戦争に勝利し、東京から高知に凱旋して、かって真吉も教授を務めた土佐藩校致道館を訪れるところで終わっている。(以前の有能な職員は皆辞職して、いなかった。)
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[融通無碍]
◆土佐藩校の致道館(表門が武道館正門として当時の姿を残す<県重要文化財>)
土佐藩校致道館(育成機関=文武館)は、吉田東洋が藩政改革の一環として文久2年(1862)に開校した。
吉田東洋(融通無碍/南史観<人物評伝>)
それまでの儒学中心の教育方針を改め文武両道を重んじ、幕末の西洋式軍備に対応した人材の育成を担った。
戊辰戦争時、土佐藩兵迅衝隊(大隊指令・乾退助(のち、板垣と改称/兵隊約1500人)は致道館に集合、東門から出軍している。
◆迅衝隊
(前列左から伴権太夫、板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、山地忠七。 中列、谷神兵衛、谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、山田喜久馬<平左衛門>(刀を立てて持つ恰幅の良い男性)、吉本平之助祐雄。 後列、片岡健吉、真辺正精、西山 榮、北村重頼、別府彦九郎)
板垣退助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
山地忠七(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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会津戦争に勝利し、江戸、京都そして高知城での戊辰戦争凱旋の後・・・
真吉は四万十川の畔、懐かしのふるさと・中村に戻ってきた。
土佐の中村(融通無碍/南史観<私観>)
そして直ぐさま、妻・お兼や娘二人、そして跡取りの次男(長男・鵬丸は夭逝した)鵬二郎を引き連れて高知城の南、鏡川の北岸・新築屋敷(=地名:現在の高知市上町、枡形、鷹匠町の鏡川に接した地区の総称)に引っ越した。
ここは足軽には居住が許されなかった区域(藩の官舎)であったが、真吉が戊辰戦争の功により新留主居役<しんるすいやく>という上士最下位に昇任したから移ることができたのだ。
足軽(融通無碍/南史観<私観>)
新留主居役(融通無碍/南史観<私観>)
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明治2年(1869)真吉、55歳
・・・・・・・・・・・・
《明治2年/真吉の動静》
【日記・長薩摩行】
2月から4月にかけて、真吉は薩長(薩摩及び長州)に藩命を帯びて旅行する。
この旅行目的は先の戦争で薩長からの応援を得て勝利を収めたからその恩を謝するための使いだった。
薩長への謝恩の旅(融通無碍/南史観<私観>)
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明治2年3月2日
長州藩内の著名人の近況を聞くと皆使命を帯びて四方に散っており、現在山口にいるのは野村和作のみという。
長州藩内の著名人(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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3月7日
長府を発す。壇の浦には砲台もあった。
壇の浦砲台(NHK動画)
英国海軍陸戦隊によって占拠された前田砲台。
御裾川が流れている。
九州の小倉台は僅か八丁(800m)しか離れていない。この地は地形が要害となるから守備には適地だと思う。
馬関に入る。真吉は、文久3年に勃発した「馬関(下関)戦争」に思いを巡らしたか。
馬関にて(融通無碍/南史観<私観>)
馬関戦争(NHK大河ドラマ/龍馬伝)
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3月8日
本陣の隠居・伊藤静斎を訪問する、淡白で高潔なお人柄だ。吉田松陰の書を貰う約束をする。
伊藤静斎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
さらに旧知の杉孫七郎が薩摩から帰って来て同じ宿になった。一別以来の積もる話が続くうちに夜になる。
かれらとの談論の詳細は別帖に記した。
真吉の『覚え書き』(融通無碍/南史観<私観>)
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3月27日
夜明けに錨を海中から引き揚げて出港する。
雲仙岳が遠くに青黒い姿を見せ天草島が右にどっかと腰をすえたように蟠わだかまる龍のように洋上に広がっている。
冬の朝日が少しずつ高くなり、高阪山を照らす、澄み切った空気を通して見る景色は素晴らしい。
洋上に浮かぶ小島はどれも石灰岩のかたまりで、白く輝く岩肌が見事だ。天草の山々はみな北から南に連なるように配置され、奇観となって旅人の目を楽しませる。肥後の山々はなだらかで、この国には堂々とした風格を感じる。
天草の船旅(融通無碍/南史観<私観>)
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3月29日
四里半進んで市来に至る。
大渡の川に石橋が架かっている。ここは総じて小川に至るまで橋を石で造る。頑丈そうに見えるし、破損して通行不能になることもあるまいから便利だろう。
官道はちょうど長州・山口から富海までの景色とそっくりだ。
麦畑は黄色で、菜種を刈り取り、小麦(香麦)が花のつぼみを膨らませている。一年に二度収穫するという。稲作に石灰を用いている(これは土佐の長岡・稲生<いなぶ>と同じ方法だ)。地元に豊富にある石灰岩を砕いて焼けば上質の肥料になり、米の収量は増える。苗代には芽吹いたばかりの稲の幼い苗が緑の針のようにびっしりと生えそろっている。
ところが道ばたに憩う人々に声を掛けても通じないし、むこうの話もこちらには理解できない。まるで夷客(外国人)の言語を聞いているような気分だ。
三里半歩いて伊集院に着き、高山店という宿を取る。
着いてから雨が降り始めた。今日は色々な場所で日本人とは思えないような異形のなりをした人士に出逢った。婦女子が裾から赤いものをちらちら見せながら往来を歩く姿は肥後路と変わらない。
市木と向田の間を婦人が魚を荷って幾隊となく群れをなして競い合うように走って、市場へ急ぐ光景を見た。ちょうどわが土佐にあって、宇佐の女どもが鰹を担いで高知の城下に売りに走り出るのと全く同じだ。
薩摩の風景(融通無碍/南史観<私観>)
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明治2年4月朔日
真吉に宛がわれた宿舎には薩摩藩の用聴きが控えている。
宿舎の門前から見える海には帆柱が林立している。桜島は港内にあり五里ばかり向こうに見える活火山。
家老職は近頃廃止されたという。執政も適任者がいないから空席である。
万事は参政が取り仕切っている、これが薩摩の新しい政<まつりごと>だ。
薩摩の政(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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4月2日
約束とおり、須磨敬二郎が市木彦太郎を伴って来訪、製鉄所見物に出る。
10時に弁天砲台の下から乗船し、磯の砲台を見る。
これは薩英戦争の遺跡で、櫻島に最も近い地点にある。
集成館/薩摩の西洋式工場群を見学(融通無碍/南史観<私観>)
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4月4日
10時過ぎ、西郷吉之助が来る。談論は2時頃に終わった。
西郷吉之助と談論(融通無碍/南史観<私観>)
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薩長への謝恩の旅 (融通無碍/第30話)
[明治2年2月21日~4月16日]
薩長への出張の後、その年<明治2年>の暮れに受け取った辞令は
『上京して大納言・徳大寺家の公務人となれ』であった。
真吉が受け取った辞令のこと(融通無碍/関連話)
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明治3年(1870)真吉、56歳
真吉は問題意識の人であった。
かれには歴史に対する使命感があった。
使命感は独自のもので、同時代の他の人々も感じてはいただろうが、討幕運動(「京大坂での伏見戦争」+「江戸での上野戦争」+「東北での会津戦争」)がほぼ終結した時点<=明治元年(1868)11月>には真吉は54歳と、当時の感覚によれば年寄りであった。
かれ自身が切実に感じている。
自分が年老いていること、自分は何をするために生れてきたかである。
明治維新は若い人の時代であった。
歴史への使命感(融通無碍/南史観<私観>)
明治の新政府(融通無碍/南史観<私観>)
・・・・・・・・・・・・
《明治3年/真吉の動静》
去年(明治2年/1869)暮れに、
大納言・徳大寺家の公務人になれとの辞令で、真吉は上京した。
お兼も嫡男・鵬次郎も高知・築屋敷に残して単身江戸(東京)に移り住む。
大名小路~三菱ケ原(千代田区丸の内)
明治3年5月
真吉は麻布・大名小路の宿舎にあって苦痛に少し顔を歪めていた。
胃の辺りに激しい痛みがあった。痛みは戊辰戦争(会津戦)終結前後から始まっていたが、だれにも告げずに過ごしてきた。
麻布・大名小路/明治3年(融通無碍/南史観<私観>)
◆最後の旅立ち
真吉も為すべきことは為した。
見る程のことは見た。
気がかりが全くない訳ではないが後ろ髪を引かれるほどではない。
人生は別離に満ちている。
(龍馬を見い出し、見守り、見届けた。もう十分だろう)
真吉は眼を閉じる。
海上に遊ぶ自分、汗して高い山に登ろうとする若い自分がぼんやり見える。唇を一文字に結ぶ。
(さあ、いこうではないか。信四郎、お信、鵬丸たちが待っている。龍馬、長州での戦乱に散った僧・清拙、従兄弟琢磨の介錯で生を閉じた間崎滄浪、浮んでは消えて行く同時代を生きた人々の顔、そして顔)
明治3年6月14日払暁、真吉息絶える。
空に明けの明星が輝いていた。
真吉は旅立つ
歴史の海に
沈黙の森に
数えて56歳。
最後の旅立ち(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[著者紹介]
南寿吉(本名・田所賢一氏)
1951-2019 高知市生まれ。
京都大学大学院修了(木材工学専攻)
終了後、高知県に就職。
2011「樋口真吉伝」(龍馬を見抜いた男)/高知県出版文化賞受賞。
趣味は古文書読みと古墓巡り。
環境問題(山・川・海のつながり)に深い関心を持っていた。
2019年6月10日没。
樋口真吉湿板写真(四万十市郷土博物館所蔵)
田所さんのこと
愛称は珍念さん。
珍念さんのこと
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆関連資料など
飛騰(高知県立坂本龍馬記念館だより第62号<2007.7>)
知られざる龍馬の師 樋口真吉伝(下)(南寿吉)
飛騰(高知県立坂本龍馬記念館だより第61号<2007.4>)
知られざる龍馬の師 樋口真吉伝(中)(南寿吉)
飛騰(高知県立坂本龍馬記念館だより第117号<2021.4>)
江戸期の文武両道(角田慶子)
**************
ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍(南寿吉著)
編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
**************
元高知県知事橋本大二郎氏
南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
幕末足軽物語/融通無碍編
****************
[広告] テラ・ハウス(森薫)
幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編(リーブル出版)
2021年6月10日 初版第1刷発行
著 者ー南寿吉(田所賢一氏)
発行人ー川上壽一
発 行ーテラ・ハウス(森薫)
装 幀ー三浦定男
【編集後記】
平成23年(2011)3月に発行された「樋口真吉伝(龍馬を見抜いた男)」は、幸いにもその年の高知県出版文化賞を受賞しました。
樋口真吉伝
(平成23年度高知県出版文化賞/2011.3.15発行)
田所君の「樋口真吉伝(龍馬を見抜いた男)」を出版した頃、
我々は60歳になっていましたが、集まっては今後のことを考え、話していました。
70歳の壁を意識していましたが、今考えるとこの10年間に「人生100年時代」に入り、
過ぎ去ってしまえば70歳とはいったい何だったのかと思います。
(編集人/モリカオル)
・・・・・・・・・・
作詞:モリカオル&Naughty-G 作曲:モリカオル
五坪ほどの土地でも(歌:元ちとせ)
年老いた時には子供たちの世話にならないように
私は五坪ほどの土地を買おう
日の当たる縁側で過ぎし日に感謝して
静かに私は旅立とう
そしてささやかなその場所に骨を埋め
年月が経てば名もない花が咲くだろう
だから五坪ほどの土地を買おう
そこには流れる歌があるから
そこには永遠の安らぎがあるから
そこには素晴らしい地上があるから
◆五坪ほどの土地でも・・・その<半世紀>後 (森薫)
私の家は5坪ではなく、100坪近くあります。
父親が60才になって建てたもので1人で住んでいました。
1989年、家族で東京からUターンして、そこに同居するようになりました。
そして、会社<(有)テラ>を立ち上げたので、庭の隅に五坪ほどの事務所(小屋)を作りました。
テラの事務所なのに、友人達は皆「寺子屋」と呼んでいました。
それがテラ小屋と呼ばれる所以です。<*(有)テラは2020年に解散>
仕事部屋というより、ギターの練習、本の制作、夜は居酒屋とフル回転していました。
田所君が寺小屋(ウチの事務所)へ来て、長々といろんな話をしました。
2005年(55才)〜2010年(60才)辺りまで、田所君が私に真吉の事を盛んに勧誘してきましたね。
私は当初、あまり乗り気ではなかったが、幡多方面で開催される講演会や桂浜で開催される真吉展示会を観ているうち、彼は本気だなと思うようになり、手伝うようになりました。
その時はいろいろ質問したり説明を受けたり、すこし歴史を勉強しましたね。
ギャグの応酬もよくやっていました。
~~~~~~~~~~~~~
岡林信康の”くそくらえ節” 皇室、トイレバージョン
1.天皇陛下ー>屁ーか?
2.妃殿下---そんなにお腹がヒデーンか?
3.皇太子---早くコータイしてんか?
上記は結構、彼好きだった。
下記は2015年頃の極めつけ
4.秋篠宮---安芸市の飲み屋(一番、田所君にはウケた!)
岡林信康のくそくらえ節
友よ(岡林信康)
高知新聞(音楽仲間/森さん、森川さんの縁)
**************
旅立った人も、これから旅立つ人も・・・
皆、昭和に生まれて、昭和に生きた友達です。
友よ
それぞれの懐かしい時代がよみがえる!
川の流れのように
知らず知らず 歩いてきた
細く長い この道
いくつも時代は過ぎて
ああ 川の流れのように
とめどなく 空が黄昏に染まるだけ
**************
最後の旅立ち
・・・・・・・・・・
静かに私も旅立とう
作詞:モリカオル &Naughty-G 作曲:モリカオル
五坪ほどの土地でも(歌:元ちとせ)
年老いた時には子供たちの世話にならないように
私は五坪ほどの土地を買おう
日の当たる縁側で過ぎし日に感謝して
静かに私は旅立とう
そしてささやかなその場所に骨を埋め
年月が経てば名もない花が咲くだろう
だから五坪ほどの土地を買おう
そこには流れる歌があるから
そこには永遠の安らぎがあるから
そこには素晴らしい地上があるから
牧野富太郎氏がこよなく愛したバイカオウレン
****************
(罪魁=賊の親玉)松平肥後守が降旗(=白旗)を捧げて陣頭に出て来た。
降伏の応接(やりとり)を済ませた後、敵は一旦城に戻った。
七ツ時(16時頃)に藩主父子は駕籠に乗って出て来た。近習(側近)が駕籠を担いでいる。駕籠の周りを2、30人ばかり無刀で警戒しながら歩いていく。
その駕籠を先導するかのように薩摩勢が進み、真吉らの土佐兵勢は殿<しんがり>(最後尾)を固めた。藩主父子を瀧沢村にある妙国寺に幽閉した。瀧沢村の名主は田中冨七、同・地頭は大瀧勝次郎であった。
会津藩が降伏(融通無碍/南史観<私観>)
=======
[融通無碍]
◆会津降伏
冬将軍の到来を間近にし、新政府は会津との停戦の時期を模索していた。このため会津と良好な関係にあった土佐に着目した。会津降伏は米沢藩→土佐藩の線で進められた。
会津は藩公・容保が和平交渉団を密かに土佐に送っていた。その構成員の多くは山川大蔵の知人だった。山川は和戦両様の構えだったが戦況から和平に傾いていた。
山川大蔵と谷干城のこと(融通無碍/南史観<人物評伝>)
和平交渉団から「藩主・容保を助命すること」を求められた土佐藩(=藩中枢にあり、会津攻撃の責任者=板垣退助)はこれを飲む。(が、板垣の独断で決裁できる問題ではない、裏で「薩摩幹部と長州幹部そして岩倉具視など公家衆との合意・承諾が既に成立していた」とみるが常識だ。)
土佐藩は会津降伏の筋書きを交渉団に示しその承諾を得た。
ーーーーーーーー
9月26日
自力で歩ける負傷兵が白河に移る。医師の田口文竜(良)が付き添う。
小笠原八吉(彦彌)が足軽一人を従え御使者として高知に派遣された。
小笠原彦彌は小笠原三兄弟の末っ子である。
小笠原三兄弟(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーー
明治元年10月24日
◆東京に凱旋
《「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP377》
午前中に東京に着いた。増上寺に入る。
東京に凱旋(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーー
10月25日
兵隊は残らず中納言様(=山内容堂)へ拝謁する。御酒料として200匹もらう。
【中納言様御意の写し】
今春以来、東北に出陣しいずれも勉励・奮戦の段はその時々に報告をうけて承知しており、予が満足はこれ以上ないほどだ。
いささかであるが、慰労のためこの酒肴を遣わす
会津戦争から凱旋まで
ーーーーーーーー
11月1日
晴れ、4時(10時ごろ)甲邸に出る。
諸隊勢揃いの上、皇居(=天皇のいる江戸城)に参内する。
下馬札の手前に銃器を置いてから登城する。回って庭先の少し下の段に刀を脱し、庭の上の土に蹲踞する。
大臣が周旋して御簾が高く巻き上げられ、隊長以下敬いて龍顔(天皇の顔)を拝したてまつる。
陛下は白い御衣を召しておられた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP380>
12月1日
曇天、真吉の戊辰の年の旅はこうして終わった。
~~~~~~~~~~~~~
◆一枚の写真が語る真吉
南寿吉氏の著書:「樋口真吉伝」(2011/高知県出版文化賞受賞)に面白い記述(四方山話)があります。
樋口真吉伝
・・・・・・・・・・・
第一章 真吉の生きた時代
故郷における樋口家
一枚の写真が語る真吉
《「樋口真吉伝」ではP20~23》
~~~~~~~~~~~
[余話<後日談>]
会津から江戸・京都、そして高知城での凱旋後、中村に戻ってきて妻・お兼や娘二人、そして跡取りの次男(長男・鵬丸は夭逝した)鵬二郎を引き連れて高知城の南、鏡川の北岸・築屋敷に引っ越した。
家の座敷からは、川向こうに筆山<ひつざん>(標高百十七m)が見える。
ここは足軽には居住が許されなかった区域(藩の官舎)であったが、真吉が戊辰戦争の功績で「新留主居役<しんるすいやく>」という上士最下位に昇任したから入居できた。
新留主居役(融通無碍/南史観<私観>)
*******************
日記:戊辰戦争従軍/樋口真吉(融通無碍/第28話)
真吉と戊辰戦争(融通無碍/南史観<私観>)
~~~~~~~~~~~~~~~~~
[日記:戊辰戦争従軍<あらまし>]
幕末足軽物語<戊辰戦争従軍編>(融通無碍/南史観<私観>)
「日記:戊辰戦争従軍」は、慶応4年元旦(真吉54歳)、伏見に会津兵が布陣している中、谷守部(干城)が土佐藩に帰るところから始まり、
谷千城(融通無碍/南史観<人物評伝>)
ーーーーーーーー
明治元年11月30日
会津戦争に勝利し、東京から高知に凱旋して、かって真吉も教授を務めた土佐藩校致道館を訪れるところで終わっている。(以前の有能な職員は皆辞職して、いなかった。)
======
[融通無碍]
◆土佐藩校の致道館(表門が武道館正門として当時の姿を残す<県重要文化財>)
土佐藩校致道館(育成機関=文武館)は、吉田東洋が藩政改革の一環として文久2年(1862)に開校した。
吉田東洋(融通無碍/南史観<人物評伝>)
それまでの儒学中心の教育方針を改め文武両道を重んじ、幕末の西洋式軍備に対応した人材の育成を担った。
戊辰戦争時、土佐藩兵迅衝隊(大隊指令・乾退助(のち、板垣と改称/兵隊約1500人)は致道館に集合、東門から出軍している。
◆迅衝隊
(前列左から伴権太夫、板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、山地忠七。 中列、谷神兵衛、谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、山田喜久馬<平左衛門>(刀を立てて持つ恰幅の良い男性)、吉本平之助祐雄。 後列、片岡健吉、真辺正精、西山 榮、北村重頼、別府彦九郎)
板垣退助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
山地忠七(融通無碍/南史観<人物評伝>)
~~~~~~~~~
会津戦争に勝利し、江戸、京都そして高知城での戊辰戦争凱旋の後・・・
真吉は四万十川の畔、懐かしのふるさと・中村に戻ってきた。
土佐の中村(融通無碍/南史観<私観>)
そして直ぐさま、妻・お兼や娘二人、そして跡取りの次男(長男・鵬丸は夭逝した)鵬二郎を引き連れて高知城の南、鏡川の北岸・新築屋敷(=地名:現在の高知市上町、枡形、鷹匠町の鏡川に接した地区の総称)に引っ越した。
ここは足軽には居住が許されなかった区域(藩の官舎)であったが、真吉が戊辰戦争の功により新留主居役<しんるすいやく>という上士最下位に昇任したから移ることができたのだ。
足軽(融通無碍/南史観<私観>)
新留主居役(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
明治2年(1869)真吉、55歳
・・・・・・・・・・・・
《明治2年/真吉の動静》
【日記・長薩摩行】
2月から4月にかけて、真吉は薩長(薩摩及び長州)に藩命を帯びて旅行する。
この旅行目的は先の戦争で薩長からの応援を得て勝利を収めたからその恩を謝するための使いだった。
薩長への謝恩の旅(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーーーーーー
明治2年3月2日
長州藩内の著名人の近況を聞くと皆使命を帯びて四方に散っており、現在山口にいるのは野村和作のみという。
長州藩内の著名人(融通無碍/南史観<人物評伝>)
ーーーーーーーーーーーー
3月7日
長府を発す。壇の浦には砲台もあった。
壇の浦砲台(NHK動画)
御裾川が流れている。
九州の小倉台は僅か八丁(800m)しか離れていない。この地は地形が要害となるから守備には適地だと思う。
馬関に入る。真吉は、文久3年に勃発した「馬関(下関)戦争」に思いを巡らしたか。
馬関にて(融通無碍/南史観<私観>)
馬関戦争(NHK大河ドラマ/龍馬伝)
ーーーーーーーーーーーー
3月8日
本陣の隠居・伊藤静斎を訪問する、淡白で高潔なお人柄だ。吉田松陰の書を貰う約束をする。
伊藤静斎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
さらに旧知の杉孫七郎が薩摩から帰って来て同じ宿になった。一別以来の積もる話が続くうちに夜になる。
かれらとの談論の詳細は別帖に記した。
真吉の『覚え書き』(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーーーーーー
3月27日
夜明けに錨を海中から引き揚げて出港する。
雲仙岳が遠くに青黒い姿を見せ天草島が右にどっかと腰をすえたように蟠わだかまる龍のように洋上に広がっている。
冬の朝日が少しずつ高くなり、高阪山を照らす、澄み切った空気を通して見る景色は素晴らしい。
洋上に浮かぶ小島はどれも石灰岩のかたまりで、白く輝く岩肌が見事だ。天草の山々はみな北から南に連なるように配置され、奇観となって旅人の目を楽しませる。肥後の山々はなだらかで、この国には堂々とした風格を感じる。
天草の船旅(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーーーーーー
3月29日
四里半進んで市来に至る。
大渡の川に石橋が架かっている。ここは総じて小川に至るまで橋を石で造る。頑丈そうに見えるし、破損して通行不能になることもあるまいから便利だろう。
官道はちょうど長州・山口から富海までの景色とそっくりだ。
麦畑は黄色で、菜種を刈り取り、小麦(香麦)が花のつぼみを膨らませている。一年に二度収穫するという。稲作に石灰を用いている(これは土佐の長岡・稲生<いなぶ>と同じ方法だ)。地元に豊富にある石灰岩を砕いて焼けば上質の肥料になり、米の収量は増える。苗代には芽吹いたばかりの稲の幼い苗が緑の針のようにびっしりと生えそろっている。
ところが道ばたに憩う人々に声を掛けても通じないし、むこうの話もこちらには理解できない。まるで夷客(外国人)の言語を聞いているような気分だ。
三里半歩いて伊集院に着き、高山店という宿を取る。
着いてから雨が降り始めた。今日は色々な場所で日本人とは思えないような異形のなりをした人士に出逢った。婦女子が裾から赤いものをちらちら見せながら往来を歩く姿は肥後路と変わらない。
市木と向田の間を婦人が魚を荷って幾隊となく群れをなして競い合うように走って、市場へ急ぐ光景を見た。ちょうどわが土佐にあって、宇佐の女どもが鰹を担いで高知の城下に売りに走り出るのと全く同じだ。
薩摩の風景(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーーーーーー
明治2年4月朔日
真吉に宛がわれた宿舎には薩摩藩の用聴きが控えている。
家老職は近頃廃止されたという。執政も適任者がいないから空席である。
万事は参政が取り仕切っている、これが薩摩の新しい政<まつりごと>だ。
薩摩の政(融通無碍/南史観<人物評伝>)
ーーーーーーーーーーーー
4月2日
約束とおり、須磨敬二郎が市木彦太郎を伴って来訪、製鉄所見物に出る。
10時に弁天砲台の下から乗船し、磯の砲台を見る。
集成館/薩摩の西洋式工場群を見学(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーーーーーー
4月4日
10時過ぎ、西郷吉之助が来る。談論は2時頃に終わった。
西郷吉之助と談論(融通無碍/南史観<私観>)
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薩長への謝恩の旅 (融通無碍/第30話)
[明治2年2月21日~4月16日]
薩長への出張の後、その年<明治2年>の暮れに受け取った辞令は
『上京して大納言・徳大寺家の公務人となれ』であった。
真吉が受け取った辞令のこと(融通無碍/関連話)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
明治3年(1870)真吉、56歳
真吉は問題意識の人であった。
かれには歴史に対する使命感があった。
使命感は独自のもので、同時代の他の人々も感じてはいただろうが、討幕運動(「京大坂での伏見戦争」+「江戸での上野戦争」+「東北での会津戦争」)がほぼ終結した時点<=明治元年(1868)11月>には真吉は54歳と、当時の感覚によれば年寄りであった。
かれ自身が切実に感じている。
自分が年老いていること、自分は何をするために生れてきたかである。
明治維新は若い人の時代であった。
歴史への使命感(融通無碍/南史観<私観>)
明治の新政府(融通無碍/南史観<私観>)
・・・・・・・・・・・・
《明治3年/真吉の動静》
去年(明治2年/1869)暮れに、
大納言・徳大寺家の公務人になれとの辞令で、真吉は上京した。
お兼も嫡男・鵬次郎も高知・築屋敷に残して単身江戸(東京)に移り住む。
明治3年5月
真吉は麻布・大名小路の宿舎にあって苦痛に少し顔を歪めていた。
胃の辺りに激しい痛みがあった。痛みは戊辰戦争(会津戦)終結前後から始まっていたが、だれにも告げずに過ごしてきた。
麻布・大名小路/明治3年(融通無碍/南史観<私観>)
◆最後の旅立ち
真吉も為すべきことは為した。
見る程のことは見た。
気がかりが全くない訳ではないが後ろ髪を引かれるほどではない。
人生は別離に満ちている。
(龍馬を見い出し、見守り、見届けた。もう十分だろう)
真吉は眼を閉じる。
海上に遊ぶ自分、汗して高い山に登ろうとする若い自分がぼんやり見える。唇を一文字に結ぶ。
(さあ、いこうではないか。信四郎、お信、鵬丸たちが待っている。龍馬、長州での戦乱に散った僧・清拙、従兄弟琢磨の介錯で生を閉じた間崎滄浪、浮んでは消えて行く同時代を生きた人々の顔、そして顔)
明治3年6月14日払暁、真吉息絶える。
空に明けの明星が輝いていた。
真吉は旅立つ
歴史の海に
沈黙の森に
数えて56歳。
最後の旅立ち(融通無碍/南史観<私観>)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[著者紹介]
南寿吉(本名・田所賢一氏)
1951-2019 高知市生まれ。
京都大学大学院修了(木材工学専攻)
終了後、高知県に就職。
2011「樋口真吉伝」(龍馬を見抜いた男)/高知県出版文化賞受賞。
趣味は古文書読みと古墓巡り。
環境問題(山・川・海のつながり)に深い関心を持っていた。
2019年6月10日没。
田所さんのこと
愛称は珍念さん。
珍念さんのこと
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆関連資料など
飛騰(高知県立坂本龍馬記念館だより第62号<2007.7>)
知られざる龍馬の師 樋口真吉伝(下)(南寿吉)
飛騰(高知県立坂本龍馬記念館だより第61号<2007.4>)
知られざる龍馬の師 樋口真吉伝(中)(南寿吉)
飛騰(高知県立坂本龍馬記念館だより第117号<2021.4>)
江戸期の文武両道(角田慶子)
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ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍(南寿吉著)
編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
幕末足軽物語/融通無碍編
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[広告] テラ・ハウス(森薫)
幕末足軽物語/樋口真吉伝完結編(リーブル出版)
2021年6月10日 初版第1刷発行
著 者ー南寿吉(田所賢一氏)
発行人ー川上壽一
発 行ーテラ・ハウス(森薫)
装 幀ー三浦定男
【編集後記】
平成23年(2011)3月に発行された「樋口真吉伝(龍馬を見抜いた男)」は、幸いにもその年の高知県出版文化賞を受賞しました。
樋口真吉伝
(平成23年度高知県出版文化賞/2011.3.15発行)
田所君の「樋口真吉伝(龍馬を見抜いた男)」を出版した頃、
我々は60歳になっていましたが、集まっては今後のことを考え、話していました。
70歳の壁を意識していましたが、今考えるとこの10年間に「人生100年時代」に入り、
過ぎ去ってしまえば70歳とはいったい何だったのかと思います。
(編集人/モリカオル)
・・・・・・・・・・
作詞:モリカオル&Naughty-G 作曲:モリカオル
五坪ほどの土地でも(歌:元ちとせ)
年老いた時には子供たちの世話にならないように
私は五坪ほどの土地を買おう
日の当たる縁側で過ぎし日に感謝して
静かに私は旅立とう
そしてささやかなその場所に骨を埋め
年月が経てば名もない花が咲くだろう
だから五坪ほどの土地を買おう
そこには流れる歌があるから
そこには永遠の安らぎがあるから
そこには素晴らしい地上があるから
◆五坪ほどの土地でも・・・その<半世紀>後 (森薫)
私の家は5坪ではなく、100坪近くあります。
父親が60才になって建てたもので1人で住んでいました。
1989年、家族で東京からUターンして、そこに同居するようになりました。
そして、会社<(有)テラ>を立ち上げたので、庭の隅に五坪ほどの事務所(小屋)を作りました。
テラの事務所なのに、友人達は皆「寺子屋」と呼んでいました。
それがテラ小屋と呼ばれる所以です。<*(有)テラは2020年に解散>
仕事部屋というより、ギターの練習、本の制作、夜は居酒屋とフル回転していました。
田所君が寺小屋(ウチの事務所)へ来て、長々といろんな話をしました。
2005年(55才)〜2010年(60才)辺りまで、田所君が私に真吉の事を盛んに勧誘してきましたね。
私は当初、あまり乗り気ではなかったが、幡多方面で開催される講演会や桂浜で開催される真吉展示会を観ているうち、彼は本気だなと思うようになり、手伝うようになりました。
その時はいろいろ質問したり説明を受けたり、すこし歴史を勉強しましたね。
ギャグの応酬もよくやっていました。
~~~~~~~~~~~~~
岡林信康の”くそくらえ節” 皇室、トイレバージョン
1.天皇陛下ー>屁ーか?
2.妃殿下---そんなにお腹がヒデーンか?
3.皇太子---早くコータイしてんか?
上記は結構、彼好きだった。
下記は2015年頃の極めつけ
4.秋篠宮---安芸市の飲み屋(一番、田所君にはウケた!)
岡林信康のくそくらえ節
友よ(岡林信康)
高知新聞(音楽仲間/森さん、森川さんの縁)
**************
旅立った人も、これから旅立つ人も・・・
皆、昭和に生まれて、昭和に生きた友達です。
友よ
それぞれの懐かしい時代がよみがえる!
川の流れのように
知らず知らず 歩いてきた
細く長い この道
いくつも時代は過ぎて
ああ 川の流れのように
とめどなく 空が黄昏に染まるだけ
**************
最後の旅立ち
・・・・・・・・・・
静かに私も旅立とう
作詞:モリカオル &Naughty-G 作曲:モリカオル
五坪ほどの土地でも(歌:元ちとせ)
年老いた時には子供たちの世話にならないように
私は五坪ほどの土地を買おう
日の当たる縁側で過ぎし日に感謝して
静かに私は旅立とう
そしてささやかなその場所に骨を埋め
年月が経てば名もない花が咲くだろう
だから五坪ほどの土地を買おう
そこには流れる歌があるから
そこには永遠の安らぎがあるから
そこには素晴らしい地上があるから
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by matsuchika
| 2023-10-05 14:08
|
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2023年 09月 05日
融通無碍<33>ユニオン号のこと
土佐の森・文芸
幕末足軽物語/融通無碍編(南寿吉著)
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<令和5年9月5日発信>
【融通無碍/第33話】
ユニオン号のこと
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ユニオン号とは?(Wikipediaより)
全長45メートル、排水量300トンの木製蒸気船で、イギリスで建造された。
慶応元年、長州藩が資金50,000両を出し、グラバー商会から薩摩藩の名義で購入、亀山社中が操船するという「桜島丸協定」が結ばれた。
薩摩藩は「桜島丸」と名付けたが、長州藩では「乙丑丸」(いっちゅうまる)と呼んだ。
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[余談]
今話題のチャットGPTで「亀山社中のユニオン号とは?」と問い合わせると『幕末の日本においてアメリカの船「USS South America(アメリカ サウスアメリカ)」を指します。これは、ペリー提督率いる黒船隊の一員として日本に接近した船です』という訳の分らない回答が来ました。(これじゃー、チャットGPTも全く使えませんなあ/松本)
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慶応元年5月
江戸幕府軍艦奉行の勝海舟の建言により、幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関=『神戸海軍操練所』が閉鎖された。
坂本龍馬、近藤長次郎、池内蔵太、千屋寅之助、高松太郎ら土佐藩の勤王志士が塾生として航海術などを学んでいたが、閉鎖にともない勝海舟はこれら土佐藩の塾生の庇護を薩摩藩に要請した。
高松太郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
薩摩藩は坂本龍馬らの航海術の専門知識を重視しており、薩摩藩の海軍力を高めるため庇護を引き受けることに。その後、薩摩に庇護されたメンバーにより「亀山社中」が設立されることになる。薩摩藩は亀山社中に出資、オーナーとして関わりを持つことに。
亀山社中(融通無碍/南史観<私観>)
亀山社中は商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であり、当時商人が参集していた長崎の小曽根乾堂家を拠点として、下関の伊藤助太夫家、そして京都の酢屋に事務所を設置した。
亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることのほかに、当時、水火のごとき関係にあった薩摩・長州両藩和解の目的も含まれており、のちの「薩長同盟」成立に貢献することになる。
亀山社中(NHK動画)
元治元年(1864)の第一次長州征伐が決まったころ、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。
第一次長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)
一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた。
ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。
取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当することにした。
この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるため、両藩とも自然に首肯した。
亀山社中の初仕事でもあった。
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慶応元年8月
亀山社中は長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買いつけ斡旋に成功した。これは同時に薩長和解の最初の契機となった。
また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の働きにより、薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功した。
長州藩が資金50,000両を出し、グラバー商会から薩摩藩の名義で購入、それを亀山社中が操船・運行するという「桜島丸協定」(桜島条約とも)が結ばれた。所有権を巡って紆余曲折はあったが、ユニオン号は亀山社中に委ねられることになった。
近藤長次郎(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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[融通無碍]
龍馬は、池内蔵太をユニオン号に乗せたく高松太郎にその旨を伝えた「龍馬の手紙」がある。
龍馬の手紙(高松太郎宛て①<幕末足軽物語/関連話>)
池内蔵太はユニオン号ではなく、亀山社中のもうひとつの小型帆船・ワイルウェフ号に乗り込むことになった。結果的にこのことが不死身と云われた歴戦の強者・池内蔵太の命を奪うことに。
龍馬は内蔵太の不死身を驚嘆しており、内蔵太の死去を聞いたとき
「わしより先に死ぬ奴があるか。わしより生きれば、わし亡き後の海援隊を継がせるつもりだったのに」と嘆き悲しんだという。
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慶応2年1月21日
坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介もあって薩長同盟が成立し、長州側から出された「両藩の合意事項の覚え書」に龍馬が朱筆をもって裏書きした。
中岡慎太郎(融通無碍/慎太郎伝<片岡正法>)
慶応2年4月、薩摩から長州への武器供与の見返りとして兵糧500俵を積んだ蒸気船・ユニオン号が薩摩に向けて馬関を出発、長崎に寄港すると、薩摩藩から亀山社中に供与された小型帆船・ワイルウェフ号が鹿児島に向かう出港準備の真っ最中であった。ワイル・ウェフ号は、荒鉄や銅地金、大砲、小銃等を薩摩に運ぶ任務で池内蔵太らが操船していた。
池内蔵太(融通無碍/南史観<人物評伝>)
慶応2年4月28日、小型帆船・ワイルウェフ号が大型蒸気船のユニオン号に曳航されて長崎を出港した。
順調な航海をして一路南下、4月30日に薩摩領の甑島に辿り着いた。
しかし天候が急変、暴風雨となり曳航していたユニオン号は危険を感じ、やむなく引き綱を解いた。
単独行動となったワイル・ウェフ号は、当初は天草に避難しようとしたが果たせず漂流を続け、上五島の潮合崎近くまで押し流された。
5月2日未明、激しい東風に煽られて、浅瀬に乗り上げ転覆、船体は一瞬のうちに破壊してしまった。
池内蔵太ら12名が犠牲になった。池内蔵太は溺死、享年26。
ユニオン号は無事に鹿児島に入港した。
慶応2年6月14日、龍馬は池内蔵太ら同志の死を悼み、ユニオン号で鹿児島より馬関に帰る途中、五島に立ち寄り、自らが碑文を書き、土地の庄屋に金を渡して碑を建てさせ、業半ばにして散っていった同志の霊を慰めている。
池内蔵太の殉死を悼む龍馬の手紙がある。兄の坂本権平に宛てたものだ。
龍馬の手紙(坂本権平宛て②<幕末足軽物語/関連話>)
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慶応2年6月、幕府が10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。
第二次長州征伐(融通無碍/南史観<私観>)
幕府による第二次長州征伐が始まり、薩摩は国難にある長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返すことに。
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慶応2年6月16日
龍馬がユニオン号で下関に帰港した。
長州藩の求めにより第二次長州征伐での幕府との戦いに参戦することになり、高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号の指揮官(艦長は千屋寅之助、砲手長は石田英吉)として、最初で最後の実戦(戦争=海戦)を経験した。
龍馬は兄・坂本権平にその状況を報告している。
龍馬の手紙(坂本権平宛て③<幕末足軽物語/関連話>)
龍馬の手紙(坂本権平宛て⑩/戦の流儀)
『7月頃蒸気船の桜島丸(海援隊名ではユニオン号)という船を持って、薩摩から長州へ使者に行き、そのまま長州の船で戦争したが状況は良かった。ですが、実際の戦争はただの話とは全然違うもの。一度実戦して実際に見ればこそ戦争の話が出来るというもの。』
高杉晋作の渡海作戦は碇泊中の幕府軍艦を奇襲攻撃するというもの。6月17日未明に参戦した。
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
石田英吉(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬はこの戦いについて戦況図付きの長文の手紙を兄・坂本権平に書き送っている
龍馬の手紙(坂本権平宛て③<幕末足軽物語/関連話>)
長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。
幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝した。思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日に大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えた。
家茂の死後、将軍後見職・一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望されたが、慶喜は将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家の家督のみを継承していた。
慶喜は、徳川家茂の代行として出陣を決意するが、九州の小倉城が陥落したことで、戦況不利を悟って休戦を主張、孝明天皇は長州征討を休戦するよう勅命を出す。
このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵。(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)
幕府の求心力も堕ち、長州・薩摩・土佐らの倒幕の気運が高まることに。
龍馬は薩摩藩から供与された帆船ワイルウェフ号を遭難・沈没させ、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。
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慶応2年7月28日
三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は
「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えている。
三吉慎蔵(融通無碍/南史観<人物評伝>)
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て①<幕末足軽物語/関連話>)
このため、薩摩藩は10月に、代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与した。
大極丸はユニオン号の艦長千屋寅之助の相方・白峰駿馬が船将として運航された。
千屋寅之助(融通無碍/南史観<人物評伝>)
白峰駿馬(融通無碍/南史観<人物評伝>)
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慶応2年8月16日
小倉城が落城したのちに、薩摩藩や幕府の動向、倒幕についての見解などを記した、長州藩士・三吉慎蔵に宛てた龍馬の手紙がある。
龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て②<幕末足軽物語/関連話>)
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薩摩と長州を結んだユニオン号(長崎龍馬便り)
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ブログ
土佐の森・文芸/融通無碍(南寿吉著)
編集・発行
土佐の森グループ/ブログ事務局
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南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)
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by matsuchika
| 2023-09-05 13:32
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